源頼家の遺児たち 一幡(いちまん)と善哉(ぜんざい)以外にも3人

源頼家 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼家とその長男・一幡(いちまん)が暗殺され、もう一人の子供である善哉(ぜんざい)は三浦義村が保護しています。

ドラマでは源頼家の子はこの2人だけしか出ていませんが、実は、源頼家にはあと3人ほど子供がいました

そして、その子たちも後に起こる事件に関わることになるので、もしかしたらドラマ終盤で出番があるかもしれません。

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源頼家の遺児たち

大河ドラマでは2人だけしかいませんが、源頼家には少なくとも5人の子供がいました。

以下の5人です。

  • 一幡(いちまん)
  • 善哉(ぜんざい)→ のちの公暁
  • 千寿丸(せんじゅまる)→ のちの栄実
  • 禅暁(ぜんぎょう)
  • 竹御所(たけごしょ)

それぞれ簡単に紹介します。

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一幡(いちまん)

一幡は、源頼家の長男で若狭局(ドラマでは「せつ」)との間の子です。

6歳のときに父・頼家が病に倒れ、跡継ぎ候補の1人としてあがります。

そのことで、「比企能員の変」と呼ばれる事件が起こり、一幡の母方の実家である比企一族が滅ぼされてしまいます。

関連記事:比企能員の変

その際に比企一族とともに燃える館の中で焼け死んだとも、一旦は逃げ延びたものの北条義時の手勢の者に討ち取られたとも言われています。

何れにせよ「比企能員の変」が起きた年に亡くなっています。

享年は6でした。

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善哉(ぜんざい)

善哉は、一幡の弟です。

母は、一幡と同じ「若狭局(せつ)」、正室の「辻殿(つつじ)」、「三浦義澄の娘」の3つの説がありますが、ドラマでは正室の「つつじ」との間の子となっています。

比企能員の変では災難を免れ、3代将軍・源実朝の猶子(※養子のようなもの)となります。

その後、12歳のときに出家し、公暁(くぎょう/こうぎょう)と名乗り、18歳で鎌倉の鶴岡八幡宮別当に就任します。

そしてその2年後、鎌倉時代最大のミステリーと呼ばれる「源実朝暗殺事件」を起こします。

源実朝暗殺直後に討ち取られ、20歳の若さで亡くなりました。

「源実朝と公暁の死で源頼朝の血筋は絶えた」というイメージが強いかもしれませんが、その後も後述する公暁の弟・妹が存命だったため、頼朝の血筋が絶えるのはもう少し先のこととなります。

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千寿丸(せんじゅまる)

千寿丸は源頼家の3男(もしくは次男)です。

善哉とほぼ同じ頃に生まれており、どちらが兄なのかはハッキリしていません。

父・源頼家の死後、尾張国(愛知県)の武士のもとに預けられます。

そのときに、北条氏に不満を持つ信濃国(長野県)の御家人・泉親衡(いずみちかひら)に将軍として擁立され、「泉親衡の乱」という事件の主犯格となってしまいます。

関連記事:泉親衡の乱

さらにこの事件がきっかけで「和田合戦」という戦が起きて、和田義盛を始めとする和田一族が滅亡してしまいます。

関連記事:和田合戦

これらの事件の後、千寿丸は北条政子の命により出家し、栄実(えいじつ)と名を変えます。

その翌年、今度は和田合戦で生き残った和田一族の残党に擁立されて、京の六波羅探題を襲撃する計画に加わりますが、この計画は事前にバレてしまい幕府軍の襲撃を受けます。

栄実はこの襲撃の際に自害したとされています。

享年は14でした。

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禅暁(ぜんぎょう)

禅暁は源頼家の4男です。

父の源頼家が暗殺されたあと、出家して京の仁和寺へ預けられます。

それから約15年後、兄の公暁が叔父である3代将軍・源実朝を暗殺するという事件が起こります。

禅暁は、この事件に加担したとの疑いをかけられます。

その後の詳細は不明ですが、源実朝暗殺の翌年、禅暁は京で殺されました。

生年が不明なためハッキリわかりませんが、享年は17~19くらいだったとされています。

この禅暁の死によって、源頼朝の血を引く男子はいなくなりました。

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竹御所(たけごしょ)

竹御所は源頼家の娘です。

竹御所が生まれた翌年に「比企能員の変」が起き、父・源頼家が亡くなります。

他の兄弟達が権力闘争に巻き込まれていく中、唯一の女子だった竹御所はそれを免れます。

15歳のときに源実朝の妻である「西八条禅尼(※ドラマでは千世)」の猶子となり、29歳のときには4代将軍・藤原頼経に嫁ぎます。

北条政子が亡くなったあとは、実質的な政子の後継者となりました。

この時点で源頼朝と北条政子の血を引いているのはこの竹御所ただ1人です。

藤原頼経と結婚して4年後、竹御所は懐妊し、周囲は源頼朝の血を引く後継者の誕生を期待していました。

しかし、当時の出産は現代よりも過酷なものでした。

難産の末、男子を死産。

このとき、竹御所自身も亡くなってしまいました。

享年は33。

頼朝の血を引く後継者誕生の期待が一転、頼朝の血筋が断絶する事態となってしまいました。

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