源頼家の妻のつつじ・せつ、北条泰時の妻の初 モデルとなった人物とその後

つつじ・せつ・初 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる源頼家の正妻「つつじ」と側室の「せつ」、北条泰時の妻「」は、全員このドラマのために付けられた名前です。

鎌倉時代当時は本名で呼ぶ習慣がなく、むしろ本名を知られるというのは命を握られるようなものとされていました。(※呪いの効力が一般に信じられていた時代です。

男性の場合は、公的な役職につくことが女性に比べて圧倒的に多かったので、本名が記録に残っていることが多かったのですが、女性はそうではなかったため、後世に本名が伝わっていないことがほとんどです。

この時代でいちばん有名な女性「北条政子」でさえ、朝廷が位を授ける際に文書に残すために付けられた名前であるとされています。(※父・北条時政の「政」をとって政子とされました。)

61歳くらいのときに「北条政子」という名前が授けられたことになりますが、それ以前の名前は不明です。

ついでに言うと、源頼朝の娘「大姫」も本名ではありません。

この時代、大姫という言葉は、「長女」という意味で使われていました。

では、鎌倉殿の13人に新しく登場した「つつじ」「せつ」「初」のモデルとなった女性はそれぞれどんな人物だったのでしょうか?

そして、彼女らはどんな人生を送ったのでしょう?

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源頼家の妻・つつじ

「つつじ」のモデルは、辻殿(つじどの)と呼ばれる女性です。

父は「足助(加茂)重長(あすけしげなが)」で、母は「源為朝の娘」とされています。

吾妻鏡では正室とされており、ドラマでも「つつじ」が正室となっていますが、実は源頼家の正室は誰だったのか、はっきりしていません。

源頼家の第2子である「善哉(のちの公暁)」を生んだとされていますが、そこらへんもあいまいで、公暁の母は、「比企能員の娘(せつ)」であるとも、「三浦義澄の娘」であるともされています。

辻殿は頼家が暗殺された後、頼家の家族をまとめる後室の立場に立ち、善哉が出家する前年に出家しています。

その後の動向は不明です。

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源頼家の側室・せつ

「せつ」のモデルは、若狭局(わかさのつぼね)と呼ばれる女性です。

若狭局は、比企能員の娘で、吾妻鏡では源頼家の側室とされています。

頼家が17歳のときに頼家の長男・一幡を生んでいます。

この一幡が嫡男のような扱いを受けていたため、若狭局(せつ)が正室だったのではないかとする説も存在します。

また、一幡だけではなく善哉(公暁)の母親だったのではないかとも言われています。

そんな彼女は比企能員の変に巻き込まれます。

どの史料でも北条義時の手のものによって、子の一幡ともども殺されたとされています。

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北条泰時の妻・初

北条泰時の妻・「初」のモデルとなったのは、矢部禅尼(やべぜんに)と呼ばれる女性です。

父は北条義時の盟友で従兄弟の三浦義村です。

北条泰時が元服した際、当時まだ存命だった源頼朝がこの縁談を決めました。

正確には、「三浦義澄の孫のうち、良い娘を泰時に娶らせよ」との命令が頼朝から発せられ、その「良い娘」として選ばれたのが矢部禅尼(初)です。

矢部禅尼の息子である北条時氏の長男・経時が第4代執権、次男・時頼が第5代執権となっていますので、彼女は4・5代執権の祖母にあたります。

長男・時氏を生んだ後、北条泰時とは離縁しています。

離縁の理由は完全に不明です。

離婚後、佐原盛連(さはらもりつら)という武将と再婚しました。

佐原盛連は酔っ払って傷害事件を起こすような男で、「悪遠江守」の異名を持つ人物です。

「聖人君子」と言われた元夫の北条泰時とはかなり違うタイプの男性と再婚したことになります。

真面目すぎるところが嫌になったのでしょうか?

1256年に不食の病気をわずらい、70歳で亡くなっています。

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