大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で壇ノ浦の戦いの決着が就き、物語がさらに進んでいきます。
今後は頼朝と義経が対立することになるはずです。
その時代に活躍した、あまり聞き馴染みのない土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)という人物を紹介します。
土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)とは?
土佐坊昌俊は僧であり、源頼朝の御家人でもあった武将です。
もとは大和国(奈良県)の興福寺の僧侶でしたが、年貢問題で代官を夜討ちしたことで関東に下向することになります。
その後源頼朝に臣従。
壇ノ浦の戦いの後、頼朝と義経の間で対立が起きると、頼朝は御家人を集めて義経を討つ者を募ります。
ほとんどの御家人は名乗り出ませんでしたが、唯一自ら手をあげたのがこの土佐坊昌俊です。
つまり、土佐坊昌俊は「頼朝と義経の対立で、一番最初に攻撃を仕掛けた人物」というわけです。
源義経襲撃
1185年10月17日、昌俊は京都にいた義経の館を襲撃します。
当時、義経の館は手薄になっていましたが、義経自らが応戦しなんとかこれを撃退。
義経の叔父の源行家も救援に駆けつけ、昌俊は敗走します。
山へ逃れますが、義経の部下に捕らえられ、最期は処刑されてしまいます。
義経は事前にこの暗殺計画のことを知っていた可能性が高いとされています。
頼朝としても義経を昌俊に暗殺させるのではなく、襲撃させて挑発することで義経に決起させようとする意図があったのではないかと言われています。
なお、この事件は「堀川夜討ち」として伝わっています。
金王丸って誰?
金王丸(こんのうまる)とは源義朝(源頼朝・義経の父)の部下であった人物です。
実在すら証明されていませんが、この「金王丸」と「土佐坊昌俊」が同一人物ではないかという説があります。
金王丸は、源義朝の死を常磐御前(源義経の母)に伝えたと言われています。
ということは幼き日の源義経にも会っていたことになります。
土佐坊昌俊=金王丸とするならば、守りの手薄な館に準備万端の暗殺部隊が押し入って返り討ちに会ったのは、幼き日の義経の姿を思い出し、討つことが出来なかったためではないかという伝説が伝わっています。
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