鎌倉時代の征夷大将軍といえば、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」が有名です。
逆に、「その他の鎌倉幕府の征夷大将軍は知らない」という人がほとんどではないでしょうか?
鎌倉時代は源頼朝が亡くなった後、執権の北条家が力を持ちます。
そのため将軍は影に隠れていますが、鎌倉幕府の征夷大将軍は全部で9人います。
以下に一覧として記載します。
目次
鎌倉幕府の将軍一覧
初代 源頼朝
源頼朝は平家を滅ぼし、日本で最初の武家政権を確立しました。
義務教育の教科書に必ず登場しますので、源頼朝を知らない日本人はいないはずです。
「鎌倉殿(鎌倉幕府の長)の役職を征夷大将軍にする」というのはこの頼朝が選んだものだとされています。
以降の時代で、「武士のトップ=征夷大将軍」となり、幕府を開きその長となるというのは、源頼朝が作った流れです。
二代目 源頼家
源頼朝の嫡男です。(※兄である千鶴丸が幼くして死亡したため)
世襲制の当時では、当然に征夷大将軍を承継することになりましたが、満21歳で死去。
将軍をやめさせられたうえ、北条氏の手のものに暗殺されたとされています。
わずか1年2ヶ月の在任期間でした。
三代目 源実朝
源頼朝の四男です。
頼家が将軍職を追われた後、12歳で征夷大将軍となります。
15年ほど将軍として在任しますが、満26歳の時に暗殺されます。
犯人は頼家の子(つまり実朝の甥)の公暁であるとされています。
この暗殺により源頼朝の嫡流は断絶。
しかし、これ以降も、征夷大将軍が鎌倉殿となり、リーダーになるという風習は変わりません。
四代目 藤原頼経
摂政・関白などを歴任した名家の出身で、源頼朝の妹の孫に当たる人物です。
頼朝の嫡流がいなくなってしまったので、有力な御家人を抑えるために「高貴な血統の人物」をトップに据えるという発想が実現します。
藤原頼経は、「反北条運動」の旗頭として担ぎ上げられ、最終的に第5代執権の北条時頼によって追放されてしまいます。
五代目 藤原頼嗣
四代将軍藤原頼経の子です。
6歳で就任、14歳で解任ですので実質的に何も出来ず、飾りの将軍だったことが窺えます。
父の藤原頼経が謀反に関与した疑いが子の頼嗣にも影響し、将軍をやめさせられたとされています。
その後若くして死亡。
享年は18歳だったとされています。
六代目 宗尊親王
名前から分かる通り、皇族です。
後嵯峨天皇の長子であり、皇族で初めて征夷大将軍に就任した人物です。
このころになると、完全に幕府の権力は北条氏のものだったため、征夷大将軍(鎌倉殿)は完全に飾りの神輿となっていました。
それならばできるだけ高貴な飾りがいいということで、皇族が征夷大将軍に担ぎ上げられるということになったようです。
最後は謀反の疑いで解任、京へ送還されることになります。
七代目 惟康親王
六代将軍の宗尊親王の嫡男です。
父の送還により、3歳で征夷大将軍に就任します。
彼の在任中に歴史的な大事件、蒙古襲来(元寇)が起きています。
元寇で活躍した北条時宗は聞いたことがある人もいるかもしれませんが、その当時の征夷大将軍が惟康親王でした。
26歳で将軍職を解任され、京に戻っています。
八代目 久明親王
七代将軍、惟康親王の従兄弟です。
やはりこのころも執権の北条貞時が実権を握っていましたので、名ばかり将軍といった立場でした。
最後も貞時によって将軍を解任されています。
執権にとって、あまり長い間成人の征夷大将軍を擁立し続けることは好ましくなかったようです。
九代目 守邦親王
鎌倉幕府最後の将軍です。
しかし、鎌倉幕府の最初の将軍「源頼朝」や、江戸幕府の最後の将軍「徳川慶喜」に比べて知名度は圧倒的に低いのではないでしょうか?
鎌倉幕府の征夷大将軍としては最長の24年の在任期間を誇ります。
しかし、実績として伝わっていることはほぼ無く、後醍醐天皇の倒幕運動でも無視されたと言われます。
在任中に鎌倉幕府が滅亡しているにも関わらず、守邦親王の動向や顛末などは記録されていません。
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