佐々木秀義の孫に医者はいた?鎌倉殿で康すおんさん一人二役の家系

佐々木秀義 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で2代将軍・源頼家が倒れた際、「佐々木秀義の孫」を名乗る医者が登場しました。

佐々木秀義はかつて源頼朝が挙兵した際、序盤から挙兵に加わった佐々木四兄弟の父親です。

鎌倉殿の13人では「康すおんさん」が演じており、歯が抜けて何をしゃべっているかほとんどわからないというとてもインパクトの有るキャラとして登場しています。

佐々木秀義

この佐々木秀義を演じた康すおんが、頼家を診察した医者として再登場しました。

となれば、「佐々木秀義の孫に医者はいたのか?」ということが気になりますが、実際はどうだったのでしょう?

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佐々木秀義の孫に医者はいた?

結論から言うと、佐々木秀義の「孫」に医者がいたという記録はありません。

佐々木秀義は鎌倉幕府創設の功労者であり、その子供や孫は御家人となり重用されることがほとんどでした。

そんな家柄に生まれて、わざわざ医者になろうとする者もいなかったものと思われます。

少なくとも「孫」に医者として名を残した者はいないようです。

しかし、佐々木秀義には、もう少し遠い子孫に名医と言われる人物がいます。

佐々木善住(ささきよしずみ)という室町時代後期を生きた医者がその人です。

この人は、多くの弟子を抱える名医だったとされています。

佐々木秀義から数えて11世の子孫だと言われています。

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実はすごい佐々木秀義

「鎌倉殿の13人」では、「何をしゃべっているのかわからないおじいちゃん」として描かれ、完全にネタキャラでした。

しかし、このおじいちゃんは鎌倉幕府にとって結構な功労者です。

「保元の乱」では源義朝(※頼朝の父)につき、「平治の乱」では源義平(※頼朝の兄)について戦います。

頼朝が挙兵すると平家方の「大庭景親」から聞いた「頼朝討伐の密事」をすぐさま頼朝に知らせ、頼朝を助けています。

そして「佐々木四兄弟」と言われる子どもたちは、源頼朝挙兵の最序盤から加わり、まだ戦力が乏しかったころの頼朝を大いに助けています。

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佐々木四兄弟とは?

佐々木秀義の子供で頼朝の挙兵をを支えた「佐々木四兄弟」とは、

  1. 佐々木定綱(ささきさだつな)
  2. 佐々木経高(ささきつねたか)
  3. 佐々木盛綱(ささきもりつな)
  4. 佐々木高綱(ささきたかつな)

の4人のことをいいます。

五男の佐々木義清(ささきよしきよ)は、当初平家方に味方したためここに含まれていません。

以下、簡単に四兄弟の紹介をします。

佐々木定綱(ささきさだつな)

佐々木定綱は佐々木秀義の嫡男です。

平家方の大庭景親が源頼朝の討伐をしようとしていることを父・佐々木秀義が知ったとき、頼朝にそのことを伝えるための使いとして選ばれたのがこの定綱でした。

定綱は危機を頼朝に伝えると、そのまま頼朝の挙兵に加わります。

石橋山の戦いで頼朝は大敗を喫しますが、定綱始め佐々木四兄弟は無事でした。

その後も多くの戦いに加わり、「近江」「長門」「石見」「隠岐」の守護に任ぜられます。

その後、領内の「延暦寺」との間でトラブルが起こり、1度は薩摩国(鹿児島県)に配流となりますが復帰。

幕府の重鎮として活躍しますが、1205年、病気のため亡くなっています。

佐々木経高(ささきつねたか)

次男の佐々木経高も挙兵の段階で源頼朝に味方しています。

この佐々木経高が平家方の「堤信遠(つつみのぶとお)」という武士の館に矢を放っています。

このときの矢が「源平合戦」開始の合図となりました。

平家を滅ぼした後は「淡路」「阿波」「土佐」の守護に任ぜられます。

鎌倉幕府創設の功労者ではありましたが、のちに承久の乱が起こると経高は朝廷方に味方します。

官軍が不利になると、最期は自害して果てました。

佐々木盛綱(ささきもりつな)

三男の佐々木盛綱は、16歳のときに伊豆に流された源頼朝の身辺に仕えます。

頼朝の信頼がとても厚かったようで、頼朝は準備段階で挙兵の計画を盛綱に話しています。

平家との戦いで活躍し、なかでも「藤戸の戦い」では平家方の城を落とす活躍をみせています。

頼朝が亡くなったあと、出家し「西念」と名乗りました。

出家した後も幕府に尽力していたようで、「牧氏の変」で平賀朝雅を討つ軍に参加しています。

佐々木高綱(ささきたかつな)

四男の佐々木高綱は、母方の親戚関係により源頼朝の従兄弟にあたる人物です。

兄が頼朝挙兵に参加すると高綱もそれに加わり、「石橋山の戦い」では頼朝の危機を救う活躍をしたとされます。

木曽義仲との「宇治川の戦い」では「梶原景季との先陣争い」で名を残しました。

のちに出家し、諸国を巡回したと伝わります。

なお、明治天皇のあとを追って殉死した「乃木希典大将」は、この佐々木高綱の末裔だとされています。

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佐々木秀義の子孫

佐々木秀義の子孫には有名な人物(家)がいくつかありますので、ごく簡単に紹介します。

佐々木道誉(ささきどうよ)

佐々木道誉は、はじめは鎌倉幕府の執権・北条高時につかえていました。

ですが、のちに鎌倉幕府倒幕の命を受けた足利尊氏の軍に従っています。

そして室町幕府において要職に就き、室町幕府の創設を支えました。

乃木希典(のぎまれすけ)

乃木希典は陸軍の軍人で陸軍大将にもなった人物です。

明治天皇を慕って殉死したことで国際的にも有名です。

乃木大将といえば、日露戦争における旅順攻略が有名ですが、実は江戸時代の不平士族の反乱である「秋月の乱」「西南戦争」などにも参戦しています。

佐々木秀義の孫・野木光綱(のぎみつつな)が「乃木氏」の祖だとされており、それに基づくと乃木大将も佐々木秀義の子孫ということになります。

六角氏(戦国大名)

戦国時代、南近江を支配していた六角氏は佐々木秀義のひ孫・佐々木泰綱(ささきやすつな)が祖だとされています。

六角氏は、忍者で有名な「甲賀」の者たちを支配下に置いていたとされています。

尼子氏(戦国大名)

佐々木秀義のひ孫が祖となった「京極氏」という家系があります。

「尼子氏」はその京極氏の分家です。

尼子氏は一時期、中国地方で大きな勢力となりましたが、毛利元就の侵攻によりその支配下に置かれます。

尼子勝久(あまごかつひさ)と山中鹿之介(やまなかしかのすけ)が上月城で敗れ、尼子氏は滅亡しましたが、毛利に降った者たちが長州藩士として続き、明治維新後もその家系は残っています。

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