三左衛門事件とはどんな出来事?源頼朝の死がきっかけで起きた京の騒動

三左衛門 映画・ドラマ
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鎌倉時代、初代将軍の源頼朝が亡くなった直後、京である騒動が起きました。

「三左衛門事件」と呼ばれる事件です。

すぐに収まったため、それほど有名な事件とはなっていませんが、「鎌倉殿の13人」でも取り扱われるようなので、簡単に解説します。

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三左衛門事件とは?

三左衛門事件とは、簡単に言うと土御門通親襲撃未遂事件です。

土御門通親は源頼朝が亡くなった頃の朝廷の実力者でした。

(関連記事:土御門通親とは?

彼を狙ったのは、「一条能保・一条高能」の遺臣だとされています。

一条能保と一条高能とは親子で、共に源頼朝からの信頼が厚かったと言われています。

が、二人共源頼朝が亡くなる以前に亡くなっているため、犯人は彼らの遺臣ということになっています。

1199年正月、源頼朝が重病であるという噂が京で広まると、京は不穏な空気に包まれます。

緊迫した空気を感じた土御門通親は、「今外に出ていくと殺されるかもしれない」と、院御所に立てこもり警備を強化します。

当初は誰が土御門通親を狙っていたのか不明でしたが、源隆保(みなもとのたかやす)という人物らが自宅に武士を集めてなにやら話し合いをしていることが発覚します。

源隆保はその疑いによって出仕を止められ後に流罪となります。

そして、後藤基清・中原政経・小野義成という3名の御家人らが捕縛されました。

この3名の官職がいずれも「左衛門尉(さえもんのじょう)」であったため、この土御門通親暗殺未遂事件は「三左衛門事件」と呼ばれます。

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三左衛門と文覚

この騒動で、ドラマで謎の僧として描かれる「文覚」も捕まっています。

何らかの形で騒動に加わったものと見られています。

三左衛門らは捕縛された後、鎌倉に連れて行かれますが、幕府が身柄の受取を拒否。

結局京へ戻されます。

三左衛門のうち、後藤基清は守護職を解かれるという処分を受けましたが、ほか2名がどうなったのかについては記録がありません。

ただ、文覚は佐渡へ流罪となりました。

この事件は、相次いで主を亡くし、最大の後ろ盾であった源頼朝まで失ってしまった「一条家」の家臣が、主家の形成を挽回させるために起こしたものだとされています。

当時、源頼朝を失った鎌倉幕府は、2代目鎌倉殿である源頼家への権力移譲を速やかに行いたかったらしく、大江広元・中原親能らが中心となってこの騒動の沈静化に力を貸しました。

結果的に、狙われていたはずの土御門通親が、幕府の協力を得て、自身の不満分子の一掃に成功した形となっています。

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