NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で鎌倉時代初期の大事件「曽我兄弟の仇討ち」が描かれました。
その後、思わぬ形で迫田孝也さん演じる「源範頼」がこの事件の余波を受けることになります。
曽我兄弟の事件をきっかけに、源範頼は謀反の疑いをかけられて流罪になるのですが、その後、史実ではどうなったのでしょうか?
目次
源範頼は流罪の後どうなった?
源範頼が流罪になったことまでは、史実のようです。
ではその後どうなったのか?
鎌倉時代の史料で、大河ドラマの制作陣がメインの参考資料としていると思われる「吾妻鏡」には、何も記述がありません。
1193年5月28日に曽我兄弟の仇討事件が起こりました。
その約3ヶ月後、8月17日に源範頼は伊豆の修禅寺に幽閉されました。
源範頼に関する吾妻鏡の記述はここで終わりです。
範頼が最期にどうなったのか?ということは書かれていません。
後世に作られた歴史書には、幽閉後誅殺されたとするものもありますが、同時代の史料にはそのような記録はありません。
そのこともあって、流罪後の源範頼に関しては様々な説が存在します。
源範頼が伊豆の修禅寺で誅殺されていないとする異説
前述の通り、源範頼について、吾妻鏡には修禅寺に幽閉されたところまでしか記述がありません。
このため様々な伝説が伝えられています。
このあたり、弟の源義経と似ていますね。
いくつかの説をご紹介します。
埼玉県の吉見町へ逃れた説
埼玉県比企郡吉見町に、「安楽寺」というお寺があります。
ここは別名「吉見観音」とも呼ばれています。
源範頼は流罪になった後、この吉見観音に隠れ住んだとする伝説があります。
源範頼には「吉見御所」という尊称もあったため、範頼が滞在したことにちなんで、「安楽寺」が「吉見観音」と呼ばれるようになったのではないか?とする説です。
ちなみに、源範頼の子孫は「吉見氏」となっています。
横須賀の追浜説
神奈川県の横須賀市に「追浜(おっぱま)」という地名があります。
この地名の由来が、「源範頼が鎌倉から追われて上陸した浜」だとされています。
逃げてきた範頼を地元の人達が匿い、そのお礼として範頼は自分の通称である「蒲殿」の「蒲」の字を与え、助けた人達は「蒲谷」という名字を名乗ったとする伝説があります。
埼玉県石戸宿に逃れた説
埼玉県北本市石戸宿の東光寺の境内に、「蒲桜(カバザクラ)」という有名な桜があります。
これは、「天然記念物」でもあり、「日本五大桜」の一つにも指定されている桜です。
この桜は、「源範頼が杖として使っていたものが根付いて育った」とも「源範頼が植えた」とも言われています。
何れにせよこの伝説によると、源範頼は石戸宿に逃れて、そこで生涯を過ごしたようです。
伊予(愛媛県)に逃れた説
愛媛県の伊予市に「鎌倉神社」という神社があります。
愛媛なのに鎌倉という名前がついているのは、「源範頼がここへ逃れてきたから、それにちなんでのこと」とされています。
ここには源範頼のものとされるお墓があります。
源範頼の墓所
流罪になって以降、消息不明の源範頼には多くの伝説が残っており、そのため「源範頼の墓所」とされるものもいくつかあります。
代表的なものをいくつか記載します。
静岡県伊豆市の修禅寺
源範頼はこの修禅寺に幽閉されたとされています。
その修禅寺で誅殺された場合、ここに墓所があるのは当然のことと言えます。
埼玉県北本市の東光寺
先程記載した「蒲桜(カバザクラ)」があるお寺です。
ここに逃れて来たという伝説もありますので、墓所があるという伝説もセットで存在します。
神奈川県横浜市金沢区の太寧寺
源範頼が横須賀の追浜へ逃れたとする説は先程ご紹介しました。
その後、鎌倉方に居場所がバレて、最期は「太寧寺」で自害したと言われています。
なお、このお寺の名前は、範頼の法名「太寧寺殿」から来ているとされています。
愛媛県伊予市の鎌倉神社
伊豆へ流罪となった後、範頼は伊予の河野氏を頼って伊予の国に逃れたとする伝説があります。
その伝説が伝わる鎌倉神社には「蒲冠者範頼公墓」と刻まれた墓石が現存しています。
この地では、源平合戦勝利の立役者である源範頼を「戦いの神様」として祀り、多くの人が戦勝祈願に訪れています。
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