無数の和田義盛たちの個別紹介【鎌倉殿の13人】の和田一族

和田義盛 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が最終章に突入し、鎌倉で起きた最大規模の市街戦「和田合戦」の様子が描かれます。

その「和田合戦」発端となった「泉親衡の乱」という事件の様子が第40話で放送されます。

関連記事:「鎌倉殿の13人」ネタバレとあらすじ40話

第39話の次回予告では、北条時房が「無数の和田義盛が集まっています。」と、一度聞いたら忘れられない一言を発し、話題となりました。

この時集まった「無数の和田義盛」のうち、数人は第40話で初登場の「和田義盛の子供や甥」です。

彼らの個別の紹介を簡単に記したいと思います。

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朝比奈義秀(あさひなよしひで)

朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、名字は違いますが和田義盛の3男です。

伝説によると「サメ3匹を抱えて海から浮かび上がる」「一夜で岩山を数百メートル削って道をつくる」というようなことをするバケモノです。

3匹目はどうやって抱えたのでしょう?

和田合戦の際、和田一族で最も活躍したのがこの朝比奈義秀だったと言われています。

多くの御家人を斬り伏せ、北条義時の次男・北条朝時にもケガを負わせたとされています。

関連記事:北条朝時とは?

和田合戦では、和田一族の主要な人物の多くが討ち死にしていますが、朝比奈義秀はバケモノ級の強さを誇りますので、生き残ります。

その後は所領の安房国(千葉県)に逃れたとされていますが、消息は不明です。

なお、一説では高麗(朝鮮半島)に逃れたとされています。

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和田義直(わだよしなお)

和田義直(わだよしなお)は、和田義盛の4男です。

泉親衡の乱に加わって一旦禁錮に処されますが、父・和田義盛らの嘆願により釈放されています。

その後の和田合戦にも参加し、2日目の夕方に討ち取られて亡くなります。

享年は37。

それを見た和田義盛が大声で泣いたとの逸話が残っています。

なお、和田義直が逃げ延びたという伝説も存在し、それによると義直は四国に逃れ、後にその子孫が土佐国(高知県)の戦国大名・長宗我部氏に従ったとされています。

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和田義重(わだよししげ)

和田義重(わだよししげ)は、和田義盛の5男です。

彼も兄・義直とともに「泉親衡の乱」で疑いをかけられ、のちに許されています。

和田合戦にも参加し、そこで自刃したとされています。

享年は36でした。

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和田胤長(わだたねなが)

和田胤長(わだたねなが)は、和田義盛からみるとにあたります。

和田義盛の弟・和田義長(わだよしなが)の嫡男です。

彼は、和田義直・和田義重とともに泉親衡の乱に関与し、捕縛されています。

義直・義重が許されたのに対し、この胤長だけは流罪となりました。

このことが和田合戦の引き金となります。

胤長は陸奥国に配流になり、和田合戦が終わったあとに処刑されています。

享年は31でした。

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【鎌倉殿の13人】には出ない和田義盛の子たち

公式サイトの人物紹介では、上記で紹介した4名のみが掲載されています。

和田義盛には他にも子供がいましたが、ドラマに出るのは4人だけのようです。

ただ一応、この記事では和田義盛の他の子供たちも簡単に紹介します。

和田常盛(わだつねもり)

和田常盛(わだつねもり)は、和田義盛の長男です。

あのバケモノの弟・朝比奈義秀と相撲をとって互角だったとされていますので、この人も十分バケモノ並の強さだったと思われます。

和田合戦にも加わりますが、和田一族が負けると甲斐国へ敗走。

最期は甲斐国で自害しています。

享年は42でした。

和田義氏 (わだよしうじ)

和田義氏 (わだよしうじ)は、和田義盛の2男です。

一族とともに和田合戦に参加し、討ち取られたとされています。

享年は40です。

和田義信 (わだよしのぶ)

和田義信 (わだよしのぶ)は、和田義盛の6男です。

彼も和田合戦で討ち取られて亡くなっています。

享年28。

群馬県にある高崎城の前身、和田城を造ったのはこの和田義信だとされています。

和田秀盛 (わだひでもり)

和田秀盛 (わだひでもり)は、和田義盛の7男です。

和田合戦で父・和田義盛が討ち取られると、兄たちとともに自害しました。

(※討ち取られたとする説もあり)

享年は15とされています。

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