大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に三浦胤義(みうらたねよし)という人物が登場します。
この記事作成時点で公式発表はまだありませんが、横須賀で行われるスペシャルトークのイベントで「岸田タツヤさん」がこの役を演じると発表されています。
恐らくあまり聞かない名前だと思いますが、三浦胤義とは一体どんな人物なのでしょう?
三浦胤義とは?
三浦胤義は、ドラマの主人公・北条泰時の盟友である三浦義村の弟で、「13人」の1人三浦義澄の末っ子です。
ですが、彼は「承久の乱」で朝廷方に味方しました。
幕府VS朝廷の歴史的な戦いで、朝廷方の主力となった人物です。
もともとは、鎌倉幕府の御家人として活躍していたのですが、最終的に倒幕計画の主犯として処罰されます。
なぜそのような事になったのでしょう?
三浦胤義が京方についたのはなぜ?
三浦胤義は「13人」の1人三浦義澄の子として生まれ、「畠山重忠の乱」「牧氏の変」「和田合戦」で活躍しています。
その後、時期は不明ながら京へ上ります。
検非違使に任じられたとも、大番役(警護役)として上京したとも伝わります。
そこで、後鳥羽上皇の近臣である藤原秀康(ふじわらひでやす)から倒幕計画への参加を説得されて、それに加わったとされています。
理由としては、「自分の妻の前の夫(源頼家)とその子(禅暁:ぜんぎょう)が北条に殺されたから」とされています。
源頼家は修善寺で北条の手の者に暗殺されたと言われています。
禅暁(ぜんぎょう)は、公暁による源実朝暗殺に関わったとの嫌疑をかけられて暗殺されました。
「妻の前夫とその子が北条に殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思ったこと」が倒幕計画参加の理由だとされます。
特に禅暁(ぜんぎょう)の助命に三浦胤義が動いていたとの説があり、これが叶わなかったことが三浦一族が幕府方と朝廷方に分かれて決裂してしまった原因だとする研究も存在します。
三浦胤義の承久の乱での動き
経緯は詳しくわかりませんが、とにかく三浦胤義が朝廷方についたのは事実です。
胤義は、朝廷の勝ちを確信していたようで、楽観的な見通しをしていたことが記録に残っています。
そして「兄の三浦義村は必ず朝廷側につく」と三浦義村に倒幕を促す密書を送ります。
が、義村は使者をすぐさま追い返し、しかもその密書を幕府に届けます。
倒幕計画を知った鎌倉では、尼将軍・政子の歴史的な演説により御家人たちが結束。
このとき政子に「逆臣」として名指しされたのが、三浦胤義と藤原秀康の2人でした。
実際は胤義は誘われて参加しただけなのですが、「後鳥羽上皇を騙して倒幕の兵をあげさせた張本人」という扱いをされています。
合戦では胤義が大将軍となりますが、幕府方に惨敗。
最後は後鳥羽上皇にも裏切られる形で「承久の乱の主犯」として攻め立てられます。
追い詰められた胤義は息子らとともに自害。
東国に残してきた幼い子供たちもほとんどが処刑されてしまいました。
本当の主犯・後鳥羽上皇は流罪で済んでいます。
さすがに上皇に弓をひくわけにはいかないというのはわかりますが、その代わりに厳罰に処せられた三浦胤義は不運な役回りだったといえそうです。
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