源頼家の最期はどうなる?権力争いに巻き込まれた鎌倉幕府第2代将軍

源頼家 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の曽我事件の場面で、源頼朝の嫡男「万寿」は、武芸はイマイチだけど判断力に優れた人物として描かれています。

この万寿が成長して第2代鎌倉殿の源頼家となるのですが、彼はどんな人物で、最期はどうなるのでしょうか?

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源頼家の最期はどうなる?

源頼家の最期は、伊豆の修禅寺に幽閉された後、暗殺されます

伊豆の修禅寺といえば、頼家の叔父である「源範頼(蒲殿)」が暗殺されたのと同じ場所です。

初代鎌倉殿の源頼朝が亡くなった後、御家人たちは権力争いを繰り広げていました。

そんな中、第2代鎌倉殿となった源頼家は、急病にかかります。

一時期、その病気のために危篤状態に陥りました。

すると、まだ存命中にもかかわらず、「頼家が亡くなったので、千幡(源実朝:頼家の弟を次の征夷大将軍に任じて欲しい」という趣旨の手紙が鎌倉から京に送られます。

(おそらくこれは北条氏が出したものだと思われます。)

この事をきっかけに、北条氏と比企氏の間で争いが勃発。

この争いによって、頼家と近い比企氏が滅亡し、頼家の長男である「一幡」も北条氏によって殺されてしまいます。

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その後、頼家の病状は回復し、事件のことを知ると激怒。

北条時政を討伐する命令を下しますが、北条の力を恐れた御家人たちは従いません。

そして逆に鎌倉殿の地位を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されます。

その後、「吾妻鏡」には、「頼家死去の報告があった」ということだけが記されていて、具体的に何があったのかについては触れられていません。

他の史料によると、頼家は入浴中に刺客に襲われ、首を紐でまかれたうえで刺されたとされています。

犯人は北条の手のものだったと言われています。

享年は満21歳でした。

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源頼家はどんな人物だった?

鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」には、源頼家は「独断を重ね遊興にふける暗君」として描かれています。

しかし、吾妻鏡を編纂したのは、頼家と対立していた北条氏です。

自分たちの正当性を認めさせるため、頼家のことを必要以上に悪く書いている可能性が高いです。

他の史料で頼家をべた褒めするものもありますが、最高権力者であったがゆえに持ち上げられていただけかもしれず、結局のところどちらの評判もあてになりません。

いずれにせよ、18歳で鎌倉殿を継ぎ21歳で暗殺された源頼家は、政治的に活躍する機会がほとんどありませんでした。

頼家は、北条氏と比企氏の争いに巻き込まれまれて暗殺されることになりました。

それはもちろん事実なのですが、頼家排斥の背景には、頼家が「頼朝時代の将軍独裁に対する御家人たちの鬱憤」を一手に背負ってしまったという側面もあります。

そう捉えると、「頼朝のようになったら困る」と実力を発揮する前に排除された頼家は、最高権力者であったとはいえ不幸な将軍だったのかもしれません。

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