大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の「第2代鎌倉殿」源頼家は、比企の乱あとに伊豆の修善寺に幽閉されます。
第3代鎌倉殿は頼家の弟・源実朝が継ぐことになります。
頼家は21歳の若さで歴史の表舞台から姿を消すことになりますが、彼はそのあとどうなるのでしょう?
源頼家の最期はどうなる?
源頼家の最期は、伊豆の修禅寺に幽閉された後、暗殺されます。
伊豆の修禅寺といえば、頼家の叔父である「源範頼(蒲殿:かばどの)」が暗殺されたのと同じ場所です。
初代鎌倉殿の源頼朝が亡くなった後、御家人たちは権力争いを繰り広げていました。
そんな中、第2代鎌倉殿となった源頼家は、急病にかかります。
一時期、その病気のために危篤状態に陥りました。
すると、まだ存命中にもかかわらず、「頼家が亡くなったので、千幡(源実朝:頼家の弟)を次の征夷大将軍に任じて欲しい」という趣旨の手紙が鎌倉から京に送られます。
(おそらくこれは北条氏が出したものだと思われます。)
この事をきっかけに、北条氏と比企氏の間で争いが勃発。
この争いによって、頼家と近い比企氏が滅亡し、頼家の長男である「一幡」も北条氏によって殺されてしまいます。
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その後、頼家の病状は回復し、事件のことを知ると激怒。
北条時政を討伐する命令を下しますが、北条の力を恐れた御家人たちは従いません。
そして逆に鎌倉殿の地位を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されます。
その後、「吾妻鏡」には、「頼家死去の報告があった」ということだけが記されていて、具体的に何があったのかについては触れられていません。
他の史料によると、頼家は入浴中に刺客に襲われ、首を紐でまかれたうえで刺されたとされています。
犯人は北条の手のものだったと言われています。
享年は満21歳でした。
源頼家はどんな人物だった?
鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」には、源頼家は「独断を重ね遊興にふける暗君」として描かれています。
しかし、吾妻鏡を編纂したのは、頼家と対立していた北条氏です。
自分たちの正当性を認めさせるため、頼家のことを必要以上に悪く書いている可能性が高いです。
他の史料で頼家をべた褒めするものもありますが、最高権力者であったがゆえに持ち上げられていただけかもしれず、結局のところどちらの評判もあてになりません。
いずれにせよ、18歳で鎌倉殿を継ぎ21歳で暗殺された源頼家は、政治的に活躍する機会がほとんどありませんでした。
源頼家と「十三人の合議制」
十三人の合議制は、源頼家の恣意的な判断を封じ込めるために設けられた制度です。
当然、「封じ込められる側」となった頼家としては面白くありません。
そのため、源頼家は「十三人の合議制」に対して反発し、若い近習を5人指名してそれ以外の者の目通りを禁じます。
ということは、源頼家への取次は合議制の13人に限定されたものの、実際に頼家に会うことができるのは近習5人に限定されていたことになります。
13人のうちの誰かから、5人のうちの誰かに話を伝えていたということなのでしょうか?
とてもややこしい状態です。
なお、その近習の5人とは、小笠原長経、比企宗員、和田朝盛、中野能成、細野四郎だとされています。(※諸説あり)
坂東武者の不満のはけ口が頼家に
十三人の合議制は、頼家の暴走を防ぐために作られた制度だとされています。
しかし、この合議制の仕組みは、頼家が第二代鎌倉殿に就任してわずか3ヶ月後にできています。
就任時18歳の若さであったとは言え、わずか3ヶ月で頼家の政治能力を判断するのは早すぎます。
頼家が政治家として有能であったのか無能であったのかとは関係なく、将軍の権力を削ぎたい御家人たちによって、この制度が創設されたと考える方が自然です。
ドラマでも描かれていますが、源頼朝の時代から将軍の独裁に対して東国武士達は不満を募らせていたようです。
その不満のはけ口に、頼朝の後を継いだ、まだ年の若い源頼家が選ばれてしまったというのが、「十三人の合議制」の実態であるようです。
実際、源頼家のことを高く評価する史料も存在します。
しかし、その実力をほとんど発揮することがないまま、頼家は御家人たちの権力争いに巻き込まれ、最期は暗殺され、後の世で暗君の扱いを受けるに至りました。
十三人の合議制で封じ込められ、その後排斥されたことの背景には、頼家が「頼朝時代の将軍独裁に対する御家人たちの鬱憤」を一手に背負ってしまったという側面もあります。
そう捉えると、「頼朝のようになったら困る」と実力を発揮する前に排除された頼家は、最高権力者であったとはいえ不幸な将軍だったのかもしれません。
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