大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で迫田孝也さんが演じる「源範頼」という武将がいます。
源頼朝の弟で源義経の兄にあたり、源義朝の六男です。
鎌倉幕府を開いた「源頼朝」、平家を滅ぼした「源義経」に比べ、「源範頼」という人物はあまり馴染みが無いかもしれません。
そこでこの記事では、源範頼のことをご紹介したいと思います。
源範頼の最期はどうなる?
源範頼は、謀反の疑いをかけられ、兄頼朝の怒りを買って伊豆の国に流罪となります。
伊豆の修禅寺というお寺に幽閉されますが、その後は歴史書「吾妻鏡」に記述がないため、不明です。
範頼が幽閉後どうなったのかについては諸説があります。
修禅寺で誅殺されたという説もあれば、越前に逃げたという説、武蔵の国に逃げた説、伊予国に逃げた説などがあって、どれが本当か定かではありません。
ちなみに、「修禅寺誅殺されたという説」をとると、「梶原景時のだまし討ちで亡くなった」とされています。
このため大河ドラマでは、「オープニングに名前が出ると登場人物のうち誰かが亡くなる」と話題の梶原景時配下の暗殺者「善児」が仕事をする可能性があります。
源範頼は平家討伐で九州を担当
範頼は平家討伐で九州に派遣されます。
このころ平家は四国・讃岐の屋島を拠点としていました。
そこで頼朝は、まず九州の平家方の豪族を平定し、平家を瀬戸内海で孤立させてしまおうと考えたのです。
範頼の九州征伐には北条義時を始め、千葉常胤、三浦義澄、和田義盛、比企能員など「鎌倉の主力」とも呼べる軍勢が参加します。
1885年1月から2月にかけて、範頼軍は首尾よく九州の平家方勢力のほとんどを平定します。
同じ頃、義経は屋島の戦いで平家方に勝利。
平家は挟み撃ちされる形となり、3月24日、ついに壇ノ浦で滅亡しました。
平家が壇ノ浦を渡って九州に逃れることができなかったのは、範頼が先に九州を押さえて逃げ場をなくしていたことが大きな要因でした。
源範頼はなぜ謀反の疑いをかけられたの?
源範頼は謀反の疑いをかけられ、伊豆の寺に幽閉されました。
このきっかけとなったのは、「曾我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件であるとされています。
これは「源頼朝が行った巻狩(遊興・軍事訓練として行う大規模な狩猟)の際に、曽我兄弟が工藤祐経という武士に仇討ちをした」という事件です。
この事件が鎌倉に伝わった際、「頼朝が討たれたとの誤報」となって伝わったと言われています。
その誤報を聞いて頼朝の妻・北条政子は嘆き悲しみました。
これを励ますため、範頼は政子に「後にはそれがしがそなえております」と言ったそうです。
普通に解釈すれば、「頼朝殿が討たれて鎌倉に敵が来ても自分がいるからご安心ください」という意味と思われます。
ですが、この話を聞いた頼朝は、「自分がいなくなれば範頼が後(跡継ぎ)になろうとしているのではないか」と謀反を疑います。
その後、二人は疑心暗鬼のような状態になり、最終的に範頼が伊豆に流されてしまうことになりました。
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