大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、主人公・北条義時の父親である「北条時政」と、その再婚相手の「りく」が紹介します。
2人とも最初からドラマのメインキャラクターであり、主人公・義時と力をあわせて北条のために尽力してきました。
ですが、この2人は北条義時・北条政子と対立し、鎌倉幕府から追い出されることになります。
牧氏の変(牧氏事件)とよばれるこの事件の詳細を簡単に記します。
牧氏の変とは?
牧氏の変とは、北条時政・牧の方(りく)の排斥事件です。
2人は北条政子・北条義時らによって強制的に隠居させられます。
なお、鎌倉殿の13人では、隠居させた後に暗殺するというのがいつものパターンですが、北条時政と牧の方(りく)は暗殺はされませんのでご安心ください。
隠居させられる直前まで、北条時政は幕府の最高権力者でした。
それをなぜ、息子の義時が無理やり引退させることになったのでしょうか?
牧氏の変のきっかけ
きっかけとなったのは、「畠山重忠の乱」と「北条政範の死」です。
以下、一つずつ解説します。
牧氏の変のきっかけ①:「畠山重忠の乱」
この事件を簡単に説明すると、「北条時政・りくが、大した理由もなく腹いせに幕府創設の功労者である畠山重忠を滅ぼした」という事件です。
畠山重忠は謀反の疑いで討たれていますが、謀反を疑われた理由が「息子の言った悪口」のみという、なんとも無理やりなでっち上げでした。
背景には武蔵国の支配をめぐる対立があり、北条時政が重要な地である武蔵国を手に入れるのに、畠山重忠は邪魔だったという事情があります。
(関連記事:畠山重忠の乱)
人望に厚く、源頼朝挙兵以来、ずっと幕府を支えてきた畠山重忠を無理やり討伐したために、北条時政に対する御家人たちの信頼は一気にゆらぎます。
牧氏の変のきっかけ②:「北条政範の死」
北条政範(ほうじょうまさのり)は、北条時政と牧の方(りく)との間の長男です。
(関連記事:北条政範とは?)
この北条政範は「牧氏の変」が起こる前年に急死しています。
それが北条氏の家督問題を引き起こしたことも牧氏の変につながる要因と見られています。
もともと、北条時政の跡を継ぐのは義時の兄である「北条宗時(ほうじょうむねとき)」であったとされています。
その宗時は「石橋山の戦い」で亡くなっています。
その後の北条家の跡継ぎ候補は、正室である牧の方(りく)の長男である北条政範でした。
ドラマでも度々北条義時が自分のことを「江間(えま)義時」と名乗るシーンがありますが、これは義時が「北条」を継ぐ予定ではなかったことを表しています。
しかし、その後継者候補・北条政範が死亡してしまい、北条家の後継問題が不明瞭になっていまいました。
この時、時政は義時の次男・北条朝時(ほうじょうともとき)を自身の後継者として擁立しようとしていたという説があります。(※朝時は「鎌倉殿の13人」には出てきません。)
もしそうならば義時は、自身と長男・泰時を後継者候補から外した時政に対して反感を抱いていた可能性があります。
このことも北条親子が対立し合うきっかけの一つになったものとみられます。
牧氏の変詳細
この時期、北条時政は幕府の最高権力者の座にはあったものの、畠山重忠討伐を強行したことによって御家人たちからの信頼を失っていました。
加えて北条家の跡継ぎ問題で、息子であり有力な御家人の1人でもある北条義時とも対立してしまっています。
北条時政と牧の方(りく)夫妻は追い詰められていました。
その2人が挽回のために考えた策が、「源実朝を廃して平賀朝雅(ひらがともまさ)を新将軍に迎える」というものです。
平賀朝雅は2人の娘婿です。
(関連記事:平賀朝雅とは?)
簡単にいうと、将軍・源実朝を暗殺し、次の将軍として自分たちの言いなりになる平賀朝雅を据えようとしていました。
しかし、周りの御家人からの信頼を失っていたため、時政とりくのクーデター計画は決行するより前に噂となって露見します。
その計画はあまりにも強硬すぎたため、北条義時・北条政子は激しく反発。
政子と義時は先手をうって時政の館にいた源実朝を避難させます。
すると、もともと時政派だった御家人を含め、ほとんどの御家人たちが政子・義時側に味方しました。
これで完全に孤立無援となった時政と牧の方(りく)は万策尽きました。
2人は出家します。
その翌日、鎌倉から追放され伊豆国の北条(故郷)へ隠居させられることになりました。
その後、2人は幕府の政治に関わることはありませんでした。
(関連記事:北条時政と牧の方(りく)の最期)
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