九条兼実とはどんな人物だった?玉葉と呼ばれる日誌を40年も

鎌倉殿の13人 映画・ドラマ
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平安時代後期から鎌倉時代初期を生きた「九条兼実(くじょうかねざね)」という公家がいました。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でココリコの田中さんが演じています。

この九条兼実が書いたとされる日記である「玉葉」は、鎌倉時代の公式な歴史書「吾妻鏡」に並んで当時を知るための貴重な資料となっています。

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九条兼実とはどんな人物?

九条兼実は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて生きた公卿公家の中でも国政を担う最高幹部)です。

摂政・関白・太政大臣などの最高クラスの職についていた人物で、朝廷から武家へ政権が移っていく時代の朝廷側の権力者です。

当時の朝廷は日々めまぐるしく情勢が変わっていましたが、九条兼実は特定の勢力には加担しないという傍観者的なスタンスを取ることで、失脚すること無く朝廷側の幹部として君臨していました。

公家や朝廷の権力が武士に移っていく過渡期に、誰にも味方しない(誰も敵に回さない)という立場であったため、朝廷側のトップである後白河法皇からは信頼されず、仲はあまり良くなかったと言われています。

このことが後に兼実にとって有利に働きます。

後白河法皇は源義経に対して「源頼朝の討伐」を命じることになるのですが、義経は苦境に陥り、連動して命令を出した後白河法皇も、頼朝に厳しい追求を受けます。

後白河法皇に近い側近たちを解任させると、新たに高官として任じられたのが九条兼実でした。

これは、兼実がどの勢力にも属しておらず、後白河法皇と親密ではなかったための人事だと言われます。

源頼朝が征夷大将軍に任命されたとき、実質的にそれを決める立場にあったのは九条兼実です。

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玉葉

いきなり話が変わりますが、九条兼実は日記をつけていました。

その日記が現在では「玉葉」と呼ばれ、平安末期から鎌倉時代初期を知るための第一級の史料となっています。

その記述は1164年から1200年までの34年間に及びます。

日記を見られるのは本望ではないでしょうが、九条兼実が34年間日記をつけてくれたおかげで我々は当時の様子を知ることが出来ているということです。

同時期に「吾妻鏡」という鎌倉幕府公式の歴史書が編纂されましたが、これは鎌倉幕府側(北条氏側)に沿った記述が多くあります。

真実を推測する手がかりとして、鎌倉幕府と関わりが薄い「朝廷の人間・九条兼実」が事実を記した日記・玉葉は非常に大きな役割を果たしています。

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