大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が話題となり、それをきっかけに鎌倉時代に興味を持たれた方が多いようです。
しかし、鎌倉時代は今から800年以上も前のことなので、「なにコレ?」と思うような言葉や制度も多く見かけることになります。
そこで、現代では馴染みのない鎌倉時代の言葉や制度について、できるだけわかりやすくご紹介します。
目次
源氏と平氏(平家)の違い
源氏も平氏も、もともとは天皇の一族です。
「臣籍降下」が行われ「源」・「平」などの姓が与えられたことで誕生した一族です。
以下、くわしく解説します。
源氏とは?
「源氏」は平安時代の初期、第52代天皇の「嵯峨天皇」の時代から始まります。
嵯峨天皇には50人近くの子供がいました。
子が多すぎて、皇子・皇女の養育費で朝廷の財政が圧迫されてしまいます。
そこで、皇子女を臣下の地位に降ろす「臣籍降下(しんせきこうか)」を行い、朝廷から独立させることにしました。
しかし、皇族は姓を持たないため、このままでは独立させた子供たちは姓(名字)がないことになってしまいます。。
そのままではよくないので、このときに「源」という姓(名字)が与えられました。
これが「源氏」の始まりです。
以降、村上天皇、宇多天皇など、合計21人の天皇が同じように自分の子に臣籍降下を行い、多くの源氏が誕生します。
中でも清和天皇を祖とする「清和源氏」が武士団の棟梁として台頭することになります。
鎌倉幕府の源頼朝や、室町幕府の足利尊氏などの一族は、この「清和源氏」の流れを汲んでいます。
平氏とは?
平氏も基本的には源氏と同じ形で誕生しています。
嵯峨天皇の父である第50代天皇・桓武天皇の子孫が臣籍降下した際に与えられた姓が「平」です。
諸説はありますが、桓武天皇が建設した「平安京」にちなんで「平」と名付けたとされています。
平氏は桓武天皇の子孫を含め4つの流派があります。
なお、「平氏」の他に「平家」という言葉もよく使われます。
少し細かい話になりますが、厳密には「平氏」と「平家」は意味が違います。
平家とは?
「平氏」とは、臣籍降下で平の姓を賜ったすべての人を指します。
これに対し「平家」は一般的に平清盛の一族を指す言葉として使われます。
この言葉の使われ方は、時代によっても異なりややこしいので、詳細は省きますが「平氏は全体」「平家は平氏の中のある特定の家」という意味で使われます。
現在で平家と言えば、平清盛が属する伊勢平氏のことを指す場合が多いです。
ちなみに、大河ドラマの主人公・北条義時の「北条家」は、伊勢平氏の子孫が起こした家であり、平家の傍流だとされています。
守護・地頭と国司の関係
鎌倉時代には、守護・地頭が日本各地に設置されました。
それより以前の奈良時代に、国司という役人が各地に派遣されています。
この守護・地頭と国司は鎌倉時代に併存していますが、この役人たちの関係とそれぞれの役割はどのようなものだったのでしょう?
守護・地頭とは?
守護・地頭は、平家が滅びた1185年に源頼朝が鎌倉幕府の役職として各地に設置しました。
守護は一国に一人設置され、地頭はその守護の配下として配属されています。
それぞれの役割は以下のとおりです。
守護
守護の主な役割は
- 「謀反人の逮捕」
- 「重罪人の捜査・逮捕」
- 「管轄内の御家人への大番役(京・鎌倉の警護役)の催促」
の3つです。(大犯三ヶ条)
ごく簡単にいえば、配置された国の中の軍事と警察業務を統括する役割です。
軍事を統括するということは、その国に住む武士たちを統率することになるため、有力な御家人が任命されました。
なお、この守護制度が室町幕府でも承継され、室町時代に守護大名が起こり、その守護大名から戦国大名が生まれるという流れが起きています。
地頭
地頭は守護の配下について、行政業務を行う役職でした。
主に年貢の徴収や納入、現地の管理などを行っています。
鎌倉時代の地頭は、粗暴に振る舞って年貢を徴収することが多かったらしく、「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざが出来たほどです。
地頭は守護と違い、御家人だけではなく功績を上げた貴族や僧侶などに褒美として与えられることもありました。
国司とは?
国司は、朝廷が各国に派遣した役人です。
守護・地頭は幕府が派遣していますので、まずここが違います。
国司は、その派遣された国内の軍事・行政・司法・祭祀など、すべてを司る絶大な権限を持つ役人でした。
各国にこの国司がいる状態で源頼朝は守護・地頭を派遣します。
そこで国司と守護・地頭の権限が被ります。
建前としては朝廷が任命した国司の方が立場は上でした。
しかし、守護・地頭は国司の命令を無視することも多く、時代が下るに連れ、国司の力は弱体化していきます。
坂東武者とは?
鎌倉殿の13人などで「坂東武者(ばんどうむしゃ)」という言葉がしばしば使われます。
坂東武者とは「関東生まれの武士」という意味です。
では「坂東」とは何なのでしょうか?
静岡県と神奈川県の間あたりに「足柄峠(あしがらとうげ)」という峠があります。
この峠は古くから交通の要衝であったとされています。
ここはかつて、「足柄坂」と呼ばれていました。
また、群馬県と長野県の境には「碓氷峠(うすいとうげ)」という峠が存在します。
ここは「碓氷坂」と呼ばれていました。
この2つの坂、「足柄坂」「碓氷坂」より東の地域を「坂東」と呼びます。
坂の東にある地域が「坂東」の由来です。
坂東武者が源氏を支援した理由
最初は85騎で挙兵した頼朝は関東で次第に勢力を拡大し、ついには平家を滅ぼします。
ところでたった85騎の勢力しかなかった頼朝に、なぜ多くの坂東武者が協力しようと思ったのでしょうか?
普通に考えれば、平家の側についておいた方が有利といえるにもかかわらずです。
この理由を端的に言えば、関東の武士たちは源氏を尊敬していたからです。
これには源頼朝の高祖父(ひいひいおじいちゃん)にあたる「源義家」という人物が関係しています。
1051年、陸奥国の豪族である安倍氏の反乱「前九年の役」という事件が起こります。
源義家は、その父・源頼義とともに安倍氏を滅ぼし、事件を解決します。
その後、陸奥守となった源義家は、前九年の役のときの協力者だった「清原氏」の家督争い「後三年の役」に介入します。
義家はこれを平定しますが、朝廷はこの事件を清原氏の内紛とみなし、褒美を与えませんでした。
それどころか朝廷に納めるべき税金を後三年の役の戦費に使ったとして、陸奥守を解任されてしまいます。
以降、10年間ほど不遇の生活を送ることになってしまいます。
しかし、その状況でなんと義家は協力してくれた関東の武士たちに対し、私財を削って褒美を与えました。
このことが坂東武者たちの心を動かし、源氏に対するプラスのイメージを生み出すことになりました。
ひいひいおじいちゃんの善行が、玄孫の頼朝の時代に報われる形となりました。
御家人とは?
「御家人」は武士の中でも将軍(鎌倉殿)と主従関係を結んだ武士のことを指します。
御家人=武士ではありません。
この時代、朝廷に仕える武士も多数存在しました。
彼らのことは御家人とは呼びません。
もともと平安時代ごろ、貴族や武家の棟梁に仕える者を「家人(けにん)」と呼んでいました。
このなかでも鎌倉殿と主従関係を結んだ家人を、鎌倉殿への敬意を表す「御」という文字をつけて「御家人」と呼ぶようになったのが御家人という言葉の始まりです。
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