大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鎌倉幕府内の御家人たちの権力闘争が描かれています。
このうち「北条義時と和田義盛の戦い(和田合戦)」が御家人同士の権力闘争の最後の戦いとなります。
鎌倉初期最大の武力抗争と呼ばれる「和田合戦」は、泉親衡(いずみちかひら)という男の陰謀から始まります。
和田合戦の前哨戦・「泉親衡の乱」とはどんな事件だったのでしょうか?
泉親衡(いずみちかひら)とは誰?
泉親衡(いずみちかひら)は、信濃国(長野県)の御家人です。
信濃の源氏の末裔で、父の代に源平合戦で源氏に味方したことにより鎌倉幕府の御家人となりました。
源氏の一門であるため、源氏をないがしろにして権勢を振るう北条一族を疎ましく思っていたと見られています。
その彼の行動が和田氏の滅亡につながることになります。
なお、泉親衡と和田一族の間に血縁関係などは特にありません。
泉親衡の乱のきっかけ
ことの発端は、阿静房安念(あせいぼうあんねん)という僧が千葉成胤(ちばなりたね:千葉常胤の孫)を訪ねたことに始まります。
この阿静房安念という男は、泉親衡の関係者でした。
安念は千葉成胤に対して北条義時打倒の協力を求めました。
しかし、千葉成胤は計画には乗らず、逆に安念を捕らえて北条義時のもとへ連行します。
そして安念の自白によって泉親衡の陰謀が明らかになります。
第2代将軍・源頼家の遺児である千寿丸(のちの「栄実:えいじつ」)を鎌倉殿に擁立し、挙兵のうえ北条義時を討ち取るという計画でした。
この計画には300人以上が加わろうとしていたと言われます。
安念の自白で判明した参加者は次々と捕らえられます。
参加者の中には、和田義盛の息子である和田義直(わだよしなお)と和田義重(わだよししげ)、甥の和田胤長(わだたねなが)の名前もありました。
息子2人は赦免されますが、甥の胤長だけは流罪となります。
このときの北条義時と和田義盛のやりとりから「和田合戦」へと繋がります。
(関連記事:和田合戦)
泉親衡のその後
計画が露見した以上、当然に首謀者である泉親衡にも追手が来ます。
親衡は追手の使者と合戦に及びますが、その混乱に乗じて逃亡。
一説には、その怪力を使って追手を殺害したうえで、行方をくらましたとされています。
そしてそのまま行方不明になります。
以降、泉親衡がどうなったのかはわかりませんが、ある伝承によると武蔵国(埼玉県)に落ち延びて出家し、その地で一生を終えたとされています。
その伝承では、泉親衡は例の乱のあと50数年間生き、88歳で亡くなったそうです。
コメント