大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のオープニングで、馬に乗った武者の後ろに「いざ」と表示される場面があります。
音楽の盛り上がりが最高潮に達したときにあらわれる「いざ」という文字が、とてもカッコいい演出になっています。
ところで、この「いざ」は鎌倉時代を象徴する「いざ鎌倉」という言葉を意識しているものと思われますが、「いざ鎌倉」という言葉の意味はどのようなものなのでしょう?
いざ鎌倉とは?
「いざ鎌倉」という言葉には
- 「一大事が起こった場合」
- 「万一の時」
- 「いよいよ行動を起こす時」
- 「全力を尽くして働くべき時」
というような意味があります。
一大事が起こって緊急事態のとき、「やってやるぞ」というようなニュアンスで使われる言葉です。
とはいえ普段の生活で普通に使う分には、少々使い所が難しい言葉かもしれません。
「いざ鎌倉」の語源「鉢木(はちのき)」
「いざ鎌倉」の語源は「鉢木(はちのき)」という能の一曲から来ていると言われます。
「鉢木」の内容は以下のとおりです。
佐野源左衛門常世
大雪の降る夕暮れ、1人の旅の僧があばら家に訪れて1晩の宿を求めました。
このあばら家の住人は「貧しさゆえにもてなすことが出来ぬ」と一旦は断りますが、雪道に悩む僧を見かねて家に招き入れます。
住人は「佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)」という武士でした。
源左衛門は(自分も満足に食べられないのに)僧に食事を出し、身の上話を始めます。
以前は多くの所領を持っていたが、一族の横領によってそれが全て奪われ、このように落ちぶれてしまったといいます。
そのような話をしていると、薪が尽きて囲炉裏の火が消えそうになりました。
すると源左衛門は、大事にしていた「松」・「梅」・「桜」の見事な盆栽を持ってきました。
「これらの品は栄えた昔に集めた自慢の品です。だが今となっては無用のもの。これらを薪にしてせめてものおもてなしにいたしましょう。」といい、盆栽を折って火にくべました。
そして「今は落ちぶれた身だが、あのように鎧と薙刀、馬だけは残しています。ひとたび鎌倉から招集がかかれば、いち早く鎌倉に駆けつけ命がけで戦うつもりでいます。」とつづけます。
翌朝、僧は源左衛門に礼を言って旅立ちました。
旅の僧の正体
それからしばらくして、突然鎌倉から緊急招集がかかりました。
源左衛門は、古くなった鎧を着け、錆びた薙刀を持ち、痩せた馬に乗って鎌倉へ駆けつけました。
鎌倉へ着くと、源左衛門は前に出てくるようとに言われます。
多くの御家人達が居並ぶなか、ボロボロの鎧で平伏した源左衛門に、幕府の有力者であろう人物が語りかけます。
「あの雪の夜の僧は私だ。あのとき言っていたとおり、こうして馳せ参じてくれたことを嬉しく思う。」
旅の僧の正体は「北条時頼(ほうじょうときより)」でした。
(※大河ドラマの主人公:北条義時のひ孫)
前執権でこの時の幕府の実質的な最高権力者です。
北条時頼は、あのときの礼にと源左衛門が失った領地を返したうえ、「上野国松井田庄」、「加賀国梅田庄」、「越中国桜井庄」という囲炉裏にくべた松・梅・桜にちなんだ領地を与えました。
源左衛門は感謝して引き下がり、はればれと故郷へ帰ったとされています。
「いざ鎌倉」は出て来ない
「いざ鎌倉」は、鉢木が出典とされています。
ですが、「いざ鎌倉」という言葉自体は「鉢木」に出てきません。
上記の内容を読んで、「どこの部分がいざ鎌倉?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
一般的には源左衛門が僧(北条時頼)に向かって語った
ひとたび鎌倉から招集がかかれば、いち早く鎌倉に駆けつけ命がけで戦うつもりでいます。
の部分だとされています。
「鉢木」は大変な人気を博し、歌舞伎などにもとりいれられて民衆の間にすっかりと定着しました。
源左衛門のように、どこでどのような暮らしをしていようとも鎌倉に危機が起これば率先して向かうという、鎌倉武士の心情を表す言葉として「いざ鎌倉」が生まれたと言われます。
北条政子とは無関係?
「承久の乱」のときに北条政子が尼将軍として演説をし、それを聞いた御家人たちが感動して幕府のもと一致団結したという逸話があります。
(※北条政子の演説詳細はこちら)
その時の御家人たちは「いざ鎌倉へ」という心情になっていそうですが、このことは「いざ鎌倉」という言葉とは直接の関係はありません。
というのも、北条政子がこの歴史的な演説を行ったのは鎌倉です。
ということはそれを聞いている御家人たちはすでに鎌倉にいます。
そしてこの後、御家人たちは京へ攻め上ることになります。
朝廷の軍が鎌倉に攻めてくるのであれば、このときに鎌倉に向かう必要があったのかもしれませんが、この戦いで鎌倉殿への恩を返すためには京へ向かう必要がありました。
ですので、なんとなくそれっぽいですが、北条政子の演説が「いざ鎌倉」の直接の出典になったというわけではありません。
しかし、「一大事が起こったらすぐに鎌倉に駆けつける」という鎌倉武士の心意気が形成されたのは、このときの出来事がきっかけだったのかもしれません。
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