大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で「畠山重忠の乱」が描かれます。
あまり有名ではありませんが、坂東武士の鏡と言われる畠山重忠の最期には、親戚である稲毛重成が関わっていました。
稲毛重成と畠山重忠の関係性と「畠山重忠の乱」での稲毛重成の動きについてご紹介します。
稲毛重成と畠山重忠の関係
稲毛重成と畠山重忠はいとこです。
両者とも秩父氏の流れをくむため、秩父氏の通字である「重」の字が名前に入っています。

秩父氏は坂東の平氏の末裔で、平将門の女系の子孫でもあります。
そのため、畠山重忠も稲毛重成も源頼朝挙兵時は平氏方として頼朝と敵対しています。
その2ヶ月後、畠山重忠・稲毛重成をはじめとする秩父一族は頼朝に帰伏し、御家人となりました。
2人とも源頼朝の舅である北条時政の娘を正室として迎えています。
そんな親戚関係の畠山重忠と稲毛重成は、「畠山重忠の乱」で対立することになります。
畠山重忠の乱での稲毛重成の動き
1205年4月11日、所領である武蔵国に隠居していたはずの稲毛重成が郎党を従えて鎌倉にやってきました。
北条時政に呼ばれてのことです。
これを受けて鎌倉では「なにか起こるのではないか」と騒ぎになります。
この騒ぎはしばらくして収まりますが、6月21日に北条時政が畠山重忠の討伐を決めると、翌22日には再び鎌倉が騒然となります。
この決定をうけて稲毛重成は御所にあがり、将軍・源実朝に謀反人・畠山重忠の討伐を訴えます。
実朝は畠山重忠の命令を下しました。
その後、稲毛重成は、畠山重忠の嫡男・重保とともに「謀反人を討つ」ということで由比ヶ浜へ向かいます。
由比ヶ浜に着くと、三浦義村が待ち受けており、重保たちは取り囲まれます。
稲毛重成は重保をおびき寄せるために同行したのです。
そこでようやく重保らは自分たちに謀反の疑いがかけられたことを知りました。
重保らは奮戦しますが多勢に無勢で為す術なく討ち取られてしまいます。
一方、重保の父・畠山重忠にも鎌倉で騒ぎが起こっているとの報告がありました。
これもおびき寄せるための虚偽の知らせです。
これを聞き、畠山重忠は所領の武蔵の国から鎌倉へ向かうと、途中で大軍勢と遭遇します。
重忠もこのとき自分が謀反人であることを知ります。
自分たちは130騎、相手は数万騎の状況で畠山重忠は覚悟を決めて大軍と対峙します。
4時間余りの激戦の末、ついに矢が畠山重忠に命中。
坂東武士の鏡は謀略によって討ち取られてしまいました。
「畠山重忠の乱」後の稲毛重成
合戦が終わり、大軍勢が鎌倉へ引き上げると、北条義時は父の北条時政に対して怒りをぶつけます。
畠山重忠の謀反は虚報で、彼は無実の罪で亡くなったと時政を責め立てます。
時政はこれを聞き、黙って引き下がります。
しかし、話はこれで終わりません。
その日の夕方、稲毛重成と弟・榛谷重朝(はんがやしげとも)とその子らが三浦義村の手勢によって襲われます。
稲毛重成らの一族は、畠山重忠を陥れた首謀者にされ、討ち取られてしまいました。
無実の畠山重忠らを攻めたとはいえ、稲毛重成としては、舅である北条時政の命令を聞いて忠実に動いただけです。
畠山重忠もいわれのない罪で理不尽な死を迎えましたが、稲毛重成も同じく理不尽な死であったと言えそうです。
しかも、稲毛重成は畠山重保を協力して討ち取った三浦義村に攻められて討たれました。
三浦義村が稲毛重成に罪をかぶせたようにも思えます。
そう考えると三浦義村の恐ろしさが際立って見えます。
「鎌倉殿の13人」のラスボスは三浦義村と原作の三谷幸喜さんが公言するのも頷けます。
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