大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、第3代鎌倉殿の源実朝が武家の棟梁として着実に成長を続けています。
しかし、彼には子供がいません。
そのため、兄・頼家の子である公暁(善哉)を猶子(養子)にしますが、結果的には彼が鎌倉殿を継ぐことはありませんでした。
では、最終的に第4代鎌倉殿となった藤原頼経(=三寅)(ふじわらよりつね:みとら)とはどんな人物だったのでしょうか?
第4代鎌倉殿
さきほど、「藤原頼経(三寅)が源実朝のあとを継いで鎌倉殿になった」と言いましたが、鎌倉時代の正式な歴史書である「吾妻鏡」によるとそれは少し違います。
「吾妻鏡」では源実朝が亡くなったあと、6年間は「北条政子」が鎌倉殿だったとしています。
北条政子が「尼将軍」と呼ばれるのは、この頃のことです。
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源実朝暗殺の時点で藤原頼経(三寅)はまだ2歳。
話すこともできないくらいの年齢なので、さすがに鎌倉殿の職務ができるはずもありません。
元服したのはそれから6年後の8歳のとき、三寅から「藤原頼経」と名を改めます。
その更に翌年に征夷大将軍に任命され、「鎌倉幕府の第4代征夷大将軍」となります。
なお、藤原頼経元服の直前に北条義時・北条政子は相次いでなくなっているため、大河ドラマでは元服後の第4代将軍・藤原頼経は出て来ないかもしれません。
藤原頼経(三寅)とはどんな人物?
ドラマでは深く描かれないかもしれないので、参考までに藤原頼経がどんな人物なのかをごく簡単に記します。
藤原頼経が第4代将軍に就任した当時、それまで幕府の中心だった北条義時・北条政子はいなくなっています。
代わりに北条泰時・北条時房が実権を握っており、若かったこともあり藤原頼経に実権はありませんでした。
しかし、将軍は将軍。
名目上は鎌倉幕府のトップです。
このころ三浦義村が藤原頼経に近づき、何度か館に招き入れていたようなので、北条義時・北条政子がいなくなった幕府で、三浦義村はもしかしたら何か企んでいたのかもしれません。
なお、三浦義村は特に謀反などを起こすことなく、その数年後に亡くなっています。
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三浦義村は特に事を起こしませんでしたが、第3代執権・北条泰時の弟、北条朝時を始めとする「反執権派」が次第に藤原頼経に近づくようになり、反執権派の中心人物とみなされるようになります。
次第に将軍・藤原頼経と執権(北条泰時を継いだ北条経時)との仲が悪くなり、ついに将軍職を引退させられてしまいます。
引退後も鎌倉に住みますが、なおも勢力を保持する頼経を警戒した5代執権・北条時頼により京へ送還されます。
頼経が執権排斥の動きを見せたため、先手を打った北条時頼がそれを抑え込んだ形です。(宮騒動)
その後、頼経を京から鎌倉に取り戻そうとする三浦一族と執権・北条氏の間で戦が起こります。(宝治合戦)
この宝治合戦から4年後、京にて39歳で病気のために亡くなります。
このころ、日本中で流行り病が猛威を振るっており、それに罹って亡くなったとされていますが、その翌月に息子で5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらよりつぐ)も亡くなっているため、何者かの関与も疑われています。
実権はなかったものの、将軍という地位があったために反執権派に担ぎ上げられ、権力闘争に巻き込まれた可哀想な将軍だったのかもしれません。
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