大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝と義経の対決が描かれます。
義経は奥州藤原氏に身を寄せ最期はそこで討ち取られますが、討ち取った藤原泰衡はその後どうなったのでしょう?
藤原泰衡の最期
藤原泰衡は、鎌倉から攻めてきた頼朝軍と戦って敗走し、北海道へ逃げようとしていたところを部下に裏切られて討たれます。
衝突が避けられないと悟った奥州藤原氏は、鎌倉軍を迎え撃つべく泰衡の兄の藤原国衡を総大将として、今の福島県国見町あたりに防衛線を敷きます。
ここで両軍は激しくぶつかり、激戦となります。
最終的には鎌倉軍の奇襲攻撃により、奥州軍は混乱に陥って敗北。
総大将の国衡もこのとき討ち取られます。
「阿津賀志山(あつかしやま)の戦い」と呼ばれるこの戦いで、鎌倉軍と奥州軍の決着はほとんど着きました。
泰衡は本拠地である平泉に火を放ち、北へ逃れます。
その後、奥州軍は目立った抵抗もせず、鎌倉軍は泰衡の捜索を始めます。
そんなある日、頼朝の宿所に手紙が投げ込まれます。
手紙は泰衡からのもので、「義経を庇ったのは父である藤原秀衡で、我々は頼朝様の命令に従って義経を討ちました。なぜ討伐されようとしているのでしょうか?どうかお許しいただき御家人にお加えください。それが無理ならせめて死罪ではなく流罪としてください。」という内容の助命嘆願でした。
頼朝はこれを無視。
部下には見つけ次第討ち取るように命令します。
泰衡は嘆願が聞き入れられなかったことを悟ると、北海道へ逃れるため古くからの御家人「河田次郎」の元に身を寄せます。
現在の秋田県大館市あたりの領主です。
そこでその河田次郎に裏切られ、殺されます。
未明に討たれたとあるので、おそらくは寝込みを襲われての最期だと思われます。
その後、河田次郎は泰衡の首を頼朝に届けますが、頼朝は古くからの主人を裏切ったことに怒り、河田次郎を処刑してしまいます。
これは、頼朝の父・源義朝が同じような状況で家臣に裏切られて殺されているため、頼朝としては河田次郎の行為を許すことが出来なかったからだと考えられています。
なぜ義経を討った?
奥州に義経が匿われていることが判明しても、藤原秀衡存命の間は頼朝も手を出せませんでした。
藤原泰衡が最終的に頼朝の圧力に屈したのは、泰衡ら兄弟の仲が悪く、一族がまとまらなかったことが大きいとされています。
秀衡もそのことに懸念を抱いていたようで、生前にいろいろと対策をしています。
泰衡・国衡・義経の3人に起請文を書かせたり、秀衡の正室を国衡に娶らせて国衡と泰衡を義理の親子としたり、結束を固めるために苦心していた様子が窺えます。
しかし、そうした努力も虚しく、秀衡の没後、一族内では争いが起きます。
その争いによって、泰衡・国衡の弟や祖母が殺されています。
こうした一族内部の争いによって奥州藤原氏の求心力が徐々に落ちていき、頼朝に対抗できなくなったため、父・秀衡の遺言を破ってまで頼朝の命令に従わざるを得なかったのでしょう。
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