大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で奥州の藤原秀衡が亡くなる際、長男・国衡、次男・泰衡、源義経を枕元に呼び3人で源頼朝の攻撃に備えるように言い遺します。
その際、跡を継ぐ次男・泰衡と長男・国衡の仲が悪いため、国衡に自分の妻を娶らせ、国衡と泰衡を義理の親子関係にするという策を講じました。
この方法は現在の日本では法律上出来ませんが、当時は近親者との婚姻もよくあることで、史実であると言われています。
義理の親子関係となった後も仲が悪い様子が描かれ、結局、泰衡は義経を討ち、国衡はそれを止めることが出来ませんでした。
この後、奥州藤原氏は滅亡への道を進むことになるのですが、国衡個人はどうなったのでしょう?
藤原国衡の最期
藤原国衡は、奥州に攻めてきた鎌倉軍を迎え撃つため、奥州軍の総大将となり、激しい戦闘の末戦死してしまいます。
奥州藤原氏の当主・藤原泰衡は源頼朝の圧力に屈して源義経を討ち取りました。
しかし、頼朝は泰衡が義経を許可なく討ったとして奥州攻めを始めます。
頼朝はもともと初めから奥州藤原氏は追討する気だったようです。
戦が避けられないと悟った泰衡は、兄である国衡を総大将とし、防塁を築いて鎌倉軍を迎え撃ちます。
両軍は現在の福島県国見町あたりで激しくぶつかります。
兵力は鎌倉軍が2万5000騎、奥州軍が2万ほどだったと伝わっています。
両軍は3日間戦い、激戦の末、最後は奇襲によって鎌倉軍が勝利します。
奥州軍は敗走を始め、国衡も出羽国(山形・秋田あたり)に逃げようとしますが、途中、和田義盛の矢を受け、負傷したところを畠山重忠の部下・大串重親という武士に討ち取られます。
没年齢は正確には不明ですが、20代後半から30代くらいだとされています。
なお蛇足ですが、この後、討ち取った側の和田義盛と畠山重忠の間で功績を巡ってケンカが起こるという後日譚があります。
奥州藤原氏の兄弟喧嘩
藤原国衡には泰衡の他にも、忠衡、高衡、通衡、頼衡といった男の兄弟がいました。
この内、ドラマで善児にやられたのは「頼衡」です。
ただ、史実では義経の討伐を巡って激しい対立が起きたとされています。
この対立の中で、忠衡、通衡、頼衡の3人が泰衡に殺されています。
兄の国衡はこれを止めることは出来ませんでした。
国衡は「泰衡の義理の父」でもありましたが、それでも「妾の子」という負い目は拭えなかったようで、兄弟たちの殺し合いをただ傍観しているしかなかったようです。
国衡は妾の子ではありますが、武勇に優れ、一族からの期待や信頼も高かったとされています。
「もしの話」にはなりますが、この国衡と泰衡の仲がよかったらどうなっていたのだろうとどうしても考えてしまいます。
奥州藤原氏が一致団結し、それに源義経が加わって鎌倉軍と戦っていたら、正直どちらが勝ってもおかしくない気がしませんか?
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