大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源義経が平家を滅ぼしたあと鎌倉に戻れずに窮地に陥っていく様子が描かれています。
このあと義経は奥州藤原氏の当主である「藤原秀衡」を頼って平泉に向かうことになります。
奥州藤原氏は当時かなりの勢力を持っており、頼朝も警戒していたと言われます。
藤原秀衡と源頼朝の兵力
藤原秀衡が従えていた武士は17万騎、源頼朝の兵力は28万4000騎であったとされています。
頼朝は平家を滅ぼして、奥州以外を支配下にしたうえでこの兵力です。
そう考えると、奥州藤原氏の勢力の強さが際立って見えます。
当時の奥州は、名産の「馬」と「金」によって財力が非常に豊かであったと伝わります。
中心地・平泉の人口は、平安京の次に多いとされるほど栄えていました。
奥州藤原氏は、「源平の合戦」に手を出していません。
このころの奥州と言えば、「蝦夷」「夷狄」と蔑まれていた時代です。
つまり、中央政権の支配下にない者として、都の人間からは蛮族のような見られ方をしていました。
そのように自分たちを蔑む人々の権力争いに加わることを良しとしなかった奥州藤原氏は、平家・源氏どちらの味方をすることもありませんでした。
都近くでは源氏・平家が争いを続ける中、その戦いとは無縁の藤原氏は奥州でその大きな勢力を保ち続けます。
奥州合戦に至る背景
源頼朝は常に藤原秀衡のことを警戒し続けていました。
そもそもを言えば、頼朝が挙兵した直後に、平家が藤原秀衡に軍兵動員要請をしています。
これを受け、「源頼朝討伐の院宣が藤原秀衡に対して出された」という噂が流れました。
結果的に秀衡はこの要請には乗らなかったものの、挙兵直後で軍の数も少ない頼朝がこの噂を聞いていたとしたら、気が気でなかったはずです。
そのように警戒していた藤原秀衡に対しても、平家を滅ぼし勢力を拡大したことで頼朝は強気に出られるようになりました。
しかし、書状で牽制をかけてみるものの、秀衡は動じません。
秀衡の態度を不気味に感じた頼朝は、結局秀衡存命の間は奥州に兵を向けることは出来ませんでした。
事態が動いたのは秀衡死去の後です。
秀衡が亡くなった後、奥州藤原氏は親族間で激しい争いがあったようです。
結果的に跡を継いだ藤原泰衡が頼朝のプレッシャーに負けて匿っていた源義経を討伐します。
すると、頼朝は「許可なく義経を討伐した」として逆に奥州藤原氏討伐の軍を出します。
どうやら最初から頼朝は奥州藤原氏に軍を出すつもりであったようです。
この間、頼朝の命令を聞くか聞かないかなどの問題を巡って奥州藤原氏の一族の中では内紛が起こっていました。
一族間で団結出来ずに頼朝の討伐軍を相手にすることになった奥州藤原氏はこの戦いで滅びることになります。
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