北条時房の最期は?泰時の頼れる叔父の生涯と【時連】からの改名の経緯

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に北条時房という人物が登場します。

北条政子・北条義時の弟であり、瀬戸康史さん演じる「五郎」と呼ばれる若武者です。

彼は、北条義時の死後、3代執権・北条泰時を支え、初代連署として活躍することになります。

その北条時房の最期と生涯、ついでに大河ドラマで「トキューサ」が話題になった改名の経緯についてご紹介します。

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北条時房の最期

北条時房は、1240年に66歳で亡くなっています。

死因は不明です。

ですが、誰かに暗殺されたり、戦で亡くなったりという可能性は低いので、病死の線が濃厚と思われます。

少なくとも事件に巻き込まれたり、権力争いで暗殺されたりということではありません。

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北条義時の死後の時房の活躍

北条時房は、鎌倉幕府最大の危機「承久の乱」で総大将の北条泰時とともに東海道を進軍して上洛します。

その後は京へ留まり初代の「六波羅探題南方」となります。

六波羅探題は、簡単にいうと朝廷と西国の御家人の監視役です。

京の六波羅という地域の北と南に置かれ、初代は北に北条泰時、南に北条時房という布陣でした。

執権・連署に継ぐ重要な役割だったとされています。

そのような重役を務めた後、時房は兄・北条義時の死をきっかけに鎌倉に戻ります。

そして、第3代執権となった北条泰時を補佐するため、初代連署に就任します。

連署というのは執権の補佐役で、簡単にいうと「副執権」です。

鎌倉幕府のナンバー3の立場です。

その後は北条泰時と少し争い事がありながらも、協力して北条家を支え鎌倉幕府の重鎮として活躍しました。

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北条泰時との関係

甥である北条泰時との関係は、「協力しあいながらも確執が無かったわけではない」という少々複雑な関係でした。

北条泰時と北条時房は、鎌倉幕府最大の危機である承久の乱で一緒に東海道を進軍して上洛、そのまま後鳥羽上皇の軍勢を蹴散らして朝廷の監視役を担いました。

当時の幕府の最高権力者であった北条義時が急死すると、すぐに2人は鎌倉に戻って協力して政を行っています。

一見仲は良さそうに見えますが、泰時の方針が気に食わないときには、時房が仮病を使って大事な行事を欠席したりもしています。

北条泰時と北条時房の関係は、お互いを支え合う強力なパートナーでもありましたが、同時にライバルでもあったという非常に微妙な関係性だったといえます。

参考までに、1つ北条泰時と北条時房に関するエピソードをご紹介します。

あるとき、北条泰時が病気にかかり、その病気が重篤化してしまいました。

この時、北条時房は仲間を集めて酒宴を催している最中でした。

ある人が「泰時の命が危ういのになぜ酒宴などしているのか?」と時房に対して問いただします。

これに対して時房は、「泰時が生きているからこうして酒宴ができる。もしこのまま泰時が死んだら自分は遁世する(=世間を捨てる・出家する)からこれが最後の酒宴となるだろう。」と語ったとされています。

このエピソードは、時房が泰時に対して絶大な信頼を置いていたことを示す逸話として伝わっています。

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北条時連→北条時房へ改名の経緯

北条時房は、元服時は「北条時連(ほうじょうときつら)」という名前でした。

時連から時房に改名した経緯について大河ドラマでは詳しく描かれていませんでしたので、この改名に関する見解を紹介します。

まず、北条時房は北条政子にとても可愛がられていたといいます。

その北条時房の元服は盛大なものだったと言われます。

このときの加冠役(※元服の際に冠をかぶせる重要な役割)を源頼朝が信頼する「三浦義連(みうらよしつら)」が務めました。

幇助時(ほうじょうときつら)の名前は、この三浦義から一字をとって名付けられました。

しかし、この時連という名前はのちに改名されることになります。

きっかけは平知康でした。

平知康は鎌倉で源頼家に蹴鞠を教えていた元後白河法皇の側近です。

酒宴にて、平知康は北条時連にこのようなことを言います。

北条殿(時連)は、見た目も良く振る舞いもすばらしいのに、名前だけはもったいない。時連という名前の「連」という字は、銭をつらぬく紐を連想させます。これは印象がよくありません。

酒の席の発言なので恐らくこんな感じで時連という名前を否定されました。

平知康

これを真に受けた時連は、「連」の字を改め「時房」と改名しました。

このことを知ると、北条政子は激怒します。

政子の立場でこの改名の経緯を見ると、「可愛い弟」に与えられた「大事な夫」が選んだ「信頼の置ける家臣」の名前が、酒宴での一言で変えられたためです。

平知康は政子の怒りを恐れて、しばらく館から出てくることができなかったと言われます。

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