大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に北条政範(ほうじょうまさのり)という人物が登場します。
主人公の父・北条時政とその後妻・りくの間の子供であり、本来北条家の嫡男であったとされる人物です。
この北条政範は、京に源実朝の奥さんを迎えに行った際に急死しました。
「吾妻鏡」によれば病死とされていますが、大河ドラマでは毒殺のような描かれ方をしており、そういった暗殺説も存在します。
彼はなぜ亡くなったのでしょう?
北条政範の死因
北条政範の死因は病死とされています。
何の病気かは不明です。
北条政範は3代将軍・源実朝の御台所(奥さん)を迎えるための使節として、10月14日に鎌倉を出発、11月3日に京へ到着しています。
この使節団には、結城朝光や畠山重保(畠山重忠の嫡男)、千葉常秀(千葉常胤の孫)、八田知尚(八田知家の子)などの有力な御家人が20名ほど参加していたとされています。
一行は11月3日に京へ到着、翌4日には京の平賀朝雅の館で使節団を歓迎する宴が催されました。
その翌日、北条政範は急死しました。
(※北条政範がこの宴に参加していたかどうかはわかっていません。ですが、ここで毒をもられたのではないかと疑う説も存在します。)
そして葬儀が行われることなく、宴会の翌日には埋葬されています。
「吾妻鏡」によると、北条政範は鎌倉を出発した後、京へ向かう道中で病にかかっていたとされています。
そのときの病気によって亡くなったというのが、通説での北条政範の死因とされています。
北条政範毒殺説
一方、北条政範の死に関しては不審な点もあり、暗殺説も存在します。
まず、北条政範は亡くなった次の日に埋葬されています。
これは土葬が主流だった当時としても早すぎます。
しかも、北条政範は当時の幕府の実質的な最高権力者の跡継ぎであるにもかかわらず、葬儀も行われていません。
京には牧の方(りく)の縁者も多く、その子である北条政範が亡くなったとあれば葬儀ぐらいは行われていてもおかしくありません。
葬儀もせずにすぐに埋葬したのは、将軍の御台所を滞りなく迎えるため、「迎えの使者の死」という不吉な出来事を隠したかったのかもしれません。
ですが同時に「証拠隠滅のためにすぐに埋葬した」と捉えることも可能です。
たとえば北条政範は実際には暗殺されており、死体をみれば病死ではないことが明らかだとすれば、犯人は早く埋葬をしてしまいたいはずです。
そうなると、「北条政範が亡くなってすぐに埋葬を強行しても文句を言われない人物」に疑惑がかかります。
源氏一門筆頭の出身であり、北条時政と牧の方(りく)の義理の息子で、北条政範の義理の兄である「平賀朝雅」ならば、「御台所を迎えるのに差し支えがある」といって埋葬を強行したとしても文句を言える人はいないでしょう。
上洛中にもう1人亡くなっていた?
「吾妻鏡」には出て来ない話なのですが同時代に書かれた史料によると、源実朝の妻を迎えるための使節団のうち、北条政範ともう1人上洛中に亡くなったとの記録がみられます。
亡くなった人物の名前は記されていませんが、この使節団が京に滞在したのは約1ヶ月ほどです。
たった1ヶ月の間に2人も病気で亡くなるのは少し不自然であり、「2人とも毒殺された」と考えたほうがまだ可能性が高いようにも思えます。
「埋葬が早すぎる」「わずかな期間で2人も死んでいる」これらのことが「平賀朝雅による北条政範暗殺説」がささやかれる背景です。
ただし、平賀朝雅は牧氏事件のあとに北条義時によって討ち取られています。
もし、本当に平賀朝雅が北条政範を暗殺したのであれば「吾妻鏡」にそのことが書かれていてもおかしくありません。(平賀朝雅を悪役にして討伐に大義名分が出来ます)
ですが、「吾妻鏡」にはそういったことは一切記されていません。
ということは「本当に北条政範は病気で亡くなった」もしくは「北条政範は暗殺されたがそれがバレてない」、「北条政範暗殺には黒幕がいて暗殺の事実を記録に残すと都合が悪かった」のいずれかなのでしょう。
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