北条政子の最期と死因 承久の乱の流れを演説で変えた尼将軍の生涯

北条政子 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、小池栄子さんが演じる重要人物「北条政子」が登場します。

おそらく「鎌倉殿の13人」が話題となるまでは、主人公の北条義時よりも有名だったと思われる人物です。

ですが、「北条政子の最期はどうなったのか?」と聞かれるとご存知ない方も多いと思いますので、そのあたりのことを簡単にまとめます。

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北条政子の最期と死因

北条政子は、1225年に69歳で亡くなります

弟・北条義時の急死の翌年のことでした。

死因は病死だとされています。

何の病気だったのかは不明です。

北条政子が亡くなる直前の「吾妻鏡」の記載をまとめると以下のとおりです。

  • 1225年5月29日 政子が病気を発症
  • 6月上旬 その後、回復と悪化を繰り返す
  • 6月8日 生きているうちに自分のための仏事を始める
  • 6月10日 宿老・大江広元が死去
  • 6月13日 北条義時の一周忌
  • 6月16日 一時意識不明となる→その後回復
  • 7月8日 危篤状態となる
  • 7月11日 午前2時ごろ、息を引き取る
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承久の乱での演説

「北条政子といえば演説」というくらい承久の乱での演説は有名です。

この演説がおこなわれた背景を簡単に説明すると、まず、「後鳥羽上皇」が挙兵をします。

このとき後鳥羽上皇が標的としたのは「鎌倉幕府」でも「将軍」でもなく「北条義時」でした。

幕府ではなく北条義時個人の討伐命令を出すことで、幕府の団結を防ぐ狙いがありました。

鎌倉幕府の中にも北条氏に恨みや不満をもつ御家人はたくさんいたからです。

後鳥羽上皇の狙い通り、鎌倉の御家人たちは混乱します。

当時の院宣(※上皇の命令)は絶対的なものでした。

その混乱状態の鎌倉で行われたのが北条政子の演説です。

皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩 既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切る可し者り。

吾妻鏡

現代語訳はだいたいこんな感じ↓です。

現代語訳

みんな心を一つにして聞きなさい。これが私の最期のことばです。
源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を作り上げてから官位といい俸祿といい、その恩はすでに山より高く海より深いものです。
その恩に報いようとする志が浅くはありませんか?
今回、逆臣の讒言によって義に反した命令が下されました。
名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義ら(※承久の乱の首謀者)を討ち取り、三代将軍が眠るこの鎌倉の地を守りなさい。
ただし、上皇方に味方しようとする者は、直ちに申し出て京へ参じるとよい。

この演説を聞いた御家人たちは感動し、それまでの動揺が収まって団結したとされています。

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「尼将軍」と呼ばれるわけ

北条政子は源頼朝が亡くなった後、出家をしています。

出家後、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれるようになりました。

では、いつからなぜ「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれるようになったのでしょう?

演説で御家人達をまとめたからではありません。

第3代将軍・源実朝が暗殺されると源頼朝の直系の男子がいなくなります。

4代目をどうするかでひと悶着があった後、最終的に摂関家から「三寅(藤原頼経)」が迎えられることになります。

三寅はこのときまだ2歳

どう考えても鎌倉殿の職務は出来ません。

そこで三寅の後見人となった北条政子が将軍としての職務を代行するようになりました。

それで北条政子は「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

承久の乱はその後起きるので、演説の際はすでに「尼将軍」の立場だったことになります。

なお、「吾妻鏡」では、「3代将軍・実朝の暗殺~北条政子が亡くなるまで」の期間(1219年~1225年)、政子のことを「鎌倉殿」としています。

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北条政子の本名は?

実は、「北条政子」という名前は後世の歴史用語です。

本人が北条政子という名前を名乗った記録はありません。

「政子」という名前は、朝廷が従三位の位を授ける際、文書に記載するために授けた名前です。

位と「政子」の名前を受けたのが62歳ごろのことで、それ以前の名前は不明です。

幼名を「万寿」「朝日」などとする史料が一応ありますが、信憑性が高いものではありません。

呼び名としては、若い頃は「大姫(※長女の意)」、頼朝が鎌倉殿となった後は「御台所」、出家した後に「尼御台」、4代将軍の後見をし始めてからは「尼将軍」と呼ばれていたものと思われます。

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北条政子の子供と子孫

北条政子には4人の子供がいました。

「大姫」、「頼家」、「三幡」、「実朝」の4人です。

大姫は20歳で病死しており、頼家は幽閉後に暗殺三幡は14歳で病死実朝は公暁に暗殺されています。

全員、政子より先に亡くなっています。

そして4人の子供のうち、その子供がいたのは「頼家」だけでした。

「一幡」、「公暁」、「栄実」、「禅暁」、「竹御所」の5人です。

一幡は「比企能員の変」の際に6歳で北条義時の郎党に殺されています。

公暁は実朝を暗殺した直後、討ち取られました。

栄実は北条氏に不満を持つ御家人達に擁立されて、北条氏や六波羅を襲撃する計画に加担し、それが露見して幕府側の襲撃を受け14歳で自殺しています。

禅暁は兄・公暁の実朝暗殺に加担したとの疑いを受け、後に17~19歳のときに殺されています。

竹御所は頼家の子供の中で唯一の女性でしたので、権力争いに巻き込まれずに源頼朝の血筋最後の生き残りとなります。

彼女は29歳のときに当時13歳だった4代将軍の藤原頼経に嫁ぎます。

4年後に懐妊しますが、難産のすえ男子を死産。

産んだ竹御所自身もこのとき亡くなってしまいます。

この竹御所の死によって、源頼朝と北条政子の血筋は完全に断絶してしまいました。

このため、北条政子には子孫がいません。

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