北条と三浦の関係は?両者が対立した宝治合戦とはどんな事件?

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公の北条義時(演:小栗旬さん)が三浦義村(演:山本耕史さん)に相談をするシーンがよく描かれます。

両者とも鎌倉幕府の御家人ですが、二人はお互いに敬語を使うことなく対等な立場で話をします。

彼らの関係はどのようなものでしょう?

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北条義時と三浦義村の関係

北条義時と三浦義村はいとこ同士の関係です。

父である北条時政と三浦義澄に嫁いだのはそれぞれ「伊東祐親の娘」とされていますので、その子供にあたる北条義時と三浦義村は従兄弟同士の関係となります。

北条義時が1163年生まれ、三浦義村の出生が1168年頃ですので、わりと年齢も近かったようです。

源頼朝が没すると、鎌倉幕府内では権力闘争が激しくなっていきます。

その結果、北条義時は最高権力者となりますが、その影には三浦義村の存在がありました。

三浦義村は、頼朝亡き後の鎌倉幕府内の権力闘争のほとんどに関わることになります。

梶原景時の変」では、窮地に立たされた結城朝光から相談を受けて、「梶原景時を糾弾する連判状」の作成に関与し、最終的に梶原景時を失脚させます。

畠山重忠の乱」で、畠山重忠の嫡男・重保を討ち取ったのは三浦義村の命を受けた佐久間太郎らだとされていますし、重忠討伐軍の中に三浦義村も加わっています。

また。畠山重忠が無実であったと後に判明すると、討伐軍にいた稲毛重成らを首謀者として三浦義村が討っています。

牧氏の変」では北条時政に狙われていた3代将軍源実朝を、時政邸から義時のもとへ逃し、北条時政らを鎌倉から追い出す手助けをしたとされています。

和田合戦」では、親戚の和田義盛を直前になって裏切り、北条義時へ和田義盛の挙兵を告げました。

実朝暗殺事件」では、公暁を操っていた黒幕とも目されており、犯人の公暁を誅殺したのも三浦義村でした。

承久の乱」においても、「北条義時討伐の書状を持ってきた使者」を追い返し、逆に北条義時にこのことを伝えています。

三浦義村は、頼朝が亡くなった後に起きたほとんどの争いに関与し、しかも北条義時に有利になるように動いています。

この動きは、北条義時のためだったのか、三浦義村自身にとって都合がよかったからなのかというのはわかりませんが、結果的に三浦義村の活躍によって北条義時は鎌倉幕府の最高権力者となっています。

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北条と三浦の対立「宝治合戦」

北条氏への貢献もあって、晩年の三浦義村は鎌倉幕府内で北条氏に継ぐ地位となりました。

北条義時と三浦義村の関係は、仲が良かったかどうかは別として協力し合う関係性であったと言えます。

しかし、彼らの死後、北条氏と三浦氏の間で争いが起こることになります。

「宝治合戦(ほうじかっせん)」と呼ばれる事件の概要は次のとおりです。

北条義時・三浦義村が共に亡くなった後、鎌倉幕府は主に3代執権の北条泰時が指揮をとってきました。

その北条泰時も亡くなると、4代執権には泰時の孫の北条経時が就任します。

経時は就任時19歳でした。

それまで北条氏の政治に不満を募らせていた御家人たちは、このタイミングで第4代将軍藤原頼経のもとに集って北条氏の反対勢力を築きます。

2つの勢力が対立する中、4代執権の北条経時が急死します。

するとすぐに反乱未遂事件(宮騒動)が勃発。

5代執権を継いだ北条時頼によって将軍派の御家人たちは処分され、将軍藤原頼経は京へ送られます。

この事件の際、三浦氏は特に動きを見せませんでしたが、将軍派の背後にはいました。

将軍派の御家人は、復権するにはもはや実力行使しかないと反北条派として勢力を結集します。

三浦義村の次男でこの時の三浦の当主・三浦泰村は北条氏へ反抗する意思はなかったものの、弟の三浦光村が反北条派の強硬派だったと言われています。

そこに同じく北条氏の外戚である安達氏(安達盛長の子孫たち)の思惑が交錯して、ついに北条氏と三浦氏を始めとする将軍派(反北条派)がぶつかります。

というより、合戦自体はほとんど安達氏が三浦氏に仕掛けたケンカに北条氏が巻き込まれる形で起こりました。

三浦氏は決起しておらず、攻め込まれたため迎撃しただけです。

北条・三浦ともに「強硬派」と「和平派」が拮抗していたようで、双方迷いながら衝突してしまったのがこの事件です。

結果的にこの合戦によって三浦氏は滅びます。

幕府開闢依頼の重臣で、将軍派の最大勢力であった三浦氏が滅びたことで、以後、北条氏の専制体制が確立する事になりました。

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