平賀朝雅(ひらがともまさ)の最期は?牧の方の娘婿と畠山重忠との因縁

平賀朝雅 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に平賀朝雅(ひらがともまさ)という御家人が登場します。

彼は、源頼家が鎌倉を離れて源実朝が第3代鎌倉殿になると、鎌倉の代替わりに乗じた謀反や混乱を防ぐため京へ派遣されます。

なのに、その京で自ら「畠山重忠の乱」「牧氏の変」とつづく騒動の火種を起こすことになってしまっいました。

そんな平賀朝雅の最期はどのようなものだったのでしょうか?

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平賀朝雅の最期は?

平賀朝雅の最期は、北条義時・北条政子の命令で討伐されます。

「牧氏の変」の影響です。

(関連記事:牧氏の変とは?

北条時政と牧の方(※ドラマでは「りく」)は、「源実朝を暗殺した後の新将軍」として平賀朝雅を擁立しようとしていました。

そのクーデターが失敗したため、平賀朝雅は「源実朝を殺して将軍の地位を乗っ取ろうとした謀反人」となってしまいます。

これを理由に北条義時の命を受けた武士たちによって京で襲撃を受けました。

家を取り囲まれた朝雅は、自ら館に火をかけ打って出ます。

山科の辺りまで落ち延びますが、追跡を振り切ることができず、そこで自害したと伝わります。

享年は24でした。

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平賀朝雅と畠山重忠との因縁

平賀朝雅は、源実朝の御台所(妻)を迎えるための上洛をした際、畠山重忠の嫡男である「畠山重保」と口論を起こしています。

この口論の件を義理の母である「牧の方(りく)」に伝えたことが「畠山重忠の乱」の原因です。

本当はどうだたのかわかりませんが、坂東武者の鏡とまで謳われた畠山重忠は、ただの口喧嘩の腹いせに謀反の疑いをかけられたことになります。

ただ、この「平賀朝雅と畠山重保の口論」以前から、平賀朝雅と畠山重忠には因縁があった可能性があります。

平賀朝雅は武蔵国の国司でした。

そして畠山重忠は武蔵国の最有力の御家人です。

武蔵国の行政を行う平賀朝雅と、武蔵国の武士の棟梁の畠山重忠は対立する場面も多かったものと推測されます。

この関係が背景にあったため、先の口論が勃発し畠山重忠の討伐にまで話が至ってしまったのかもしれません。

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平賀朝雅って実は結構すごい人?

平賀朝雅は、「源氏」の血を引き「比企尼の孫」であり「北条時政の娘婿」で、源頼朝の猶子(※養子のようなもの)になっているので「源頼朝の義理の息子」でもあります。

当時の権力者のサラブレッドです。

それだけでなく武士としての能力も高かったようです。

平賀朝雅は実朝が3代目鎌倉殿になると、京都守護として京に派遣されます。

(↑この時20歳前後です。)

平賀朝雅が京に派遣された理由は、鎌倉の混乱に乗じて謀反が起こることを防ぐためでした。

この懸念は現実のものとなり、実際に謀反が起こります。

乱を起こしたのは平氏の残党でした。

伊勢国(三重県あたり)の守護である山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)の館を平氏の残党が襲撃します。

襲撃といっても大規模なものではなかったようで、山内首藤経俊も無事でした。

館を襲われた経俊は、当初この襲撃を平氏の反乱であるとは思っていませんでした。

しかし、領内の各地で次々と平氏が挙兵。

油断していた経俊は逃亡してしまいます。

その結果、伊賀・伊勢の地域は平氏に制圧されてしまいました。

幕府はこの知らせを受けると、京都守護の平賀朝雅に乱の制圧を命じます。

反乱軍はどれくらいいたのかわかっていませんが、1000人を超えるという噂が京で流れたようです。

対する平賀朝雅の軍勢は200。

反乱は平賀朝雅の軍が伊勢国に入ってわずか3日で鎮圧されました。

このため、このときの平氏の反乱は「三日平氏の乱」と呼ばれています。

平氏側の戦力はわかっていませんが、噂通り1000を超える軍勢がいたのなら、平賀朝雅は下手をしたら5倍の敵を3日で倒したことになります。

そうでなくても現地の守護が追い出されるほどの軍勢を、たった3日で制圧した時点で十分すごい功績です。

血筋も良く、武士としての能力も高い、こういった人物だったからこそ北条時政と牧の方(りく)は平賀朝雅を4代目将軍に擁立しようと考えたのかもしれません。

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