大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中川大志さん演じる「畠山重忠」という武将がいます。
清々しいほどの好青年で、事あるごとに活躍しています。
十三人の合議制のメンバーには入っていないものの、「坂東武士の鏡」と言われるほどの名声を誇った畠山重忠はどのような人生を送ったのでしょうか?
畠山重忠の最期
畠山重忠は、謀反の疑いをかけられ、北条時政の命により討たれました。
西暦1205年、畠山重忠42歳のときのことです。
重忠追討軍の総大将は大河ドラマの主人公・北条義時でした。
このときの戦いで畠山重忠の手勢は130騎、対する北条義時の軍勢は数万騎という、どう考えても勝てるはずのない兵力差だったと伝わります。
このため「謀反というのはでっちあげだ」と当時の人々も思っていたようです。
総大将となった北条義時も、畠山重忠は間違いであったと述べ、命令を出した父・時政を糾弾しています。
清廉潔白で人望のあった畠山重忠の討伐を命じたことで、御家人たちの心は北条時政から次第に離れるようになり、時政は最終的に「牧の方事件」を経て追放されるに至ります。
北条時政との対立
畠山重忠討伐を命じたのは北条時政ですが、二人の間に遺恨があったわけではありません。
北条時政と牧の方(ドラマでは「りく・演:宮沢りえさん」)の娘婿、「平賀朝雅」と畠山重忠の嫡男・「畠山重保」が酒宴の席で言い争いを起こします。
これを平賀朝雅が牧の方に告げたことが畠山重忠討伐のきっかけとなります。
牧の方は畠山重保を恨み、父である畠山重忠に「謀反の疑いあり」と、夫の北条時政に討伐を求めます。
さすがに怪しんだのか、時政も息子の北条義時・時房に相談します。
2人は「畠山重忠が謀反など起こすことはない」と反対しますが、最終的に牧の方が押し切る形で時政を説き伏せ、討伐が決定します。
討伐理由が「酒宴の席の息子の暴言」という無理やりなものにするしかないほど、畠山重忠は清廉潔白な人物であったと見られるエピソードです。
北条義時との関係
北条義時は畠山重忠の討伐に反対の立場であったと伝わります。
畠山重忠を討ったのは北条義時の軍勢ですが、彼は討伐の相談を受けたときにも反対し、部下が重忠の首を持ってきたときも悲観に暮れて涙したと言われています。
義時は畠山重忠の討伐後、命令を出した父・時政を糾弾します。
これを受け、時政は黙って引き下がったと伝わります。
この事件の背景には、この直前に北条氏によって討たれた比企氏の所領問題があります。
比企氏が領していた武蔵国を巡って畠山重忠と北条時政とは対立関係にありました。
時を同じくして、後妻とその子を優遇する北条時政と北条義時の親子の間にも対立関係が生じつつありました。
畠山重忠の討伐理由だけ見るとかなり理不尽な気がしますが、当時は権力争いの真っ只中です。
重忠はたまたま所有する領地がよくなかったために、権力争いに巻き込まれてしまった被害者なのかもしれません。
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