畠山重忠の最期は?鎌倉殿イケメン係中川大志の退場「畠山重忠の乱」

畠山重忠 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に畠山重忠という人物が登場します。

中川大志さんが演じており、ドラマの中では「見栄えが良い」を理由に式典で馬を引く係に選ばれたり、逆に「見栄えが良すぎる」と隠密活動を断られたりするイケメン担当です。

人柄も清廉潔白で「坂東武者の鏡」とまで言われます。

そんな畠山重忠も源実朝が3代将軍に就任した直後のタイミングで退場することになります。

彼の最期はどのようなものだったのでしょうか

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畠山重忠の最期

畠山重忠は討ち死にします。

この時戦ったのは、北条義時の軍勢です。

畠山重忠の乱」と呼ばれる合戦でした。

義時率いる幕府軍は数万騎、対する畠山重忠の軍勢はわずか130騎だったとされています。

両軍は二俣川(神奈川県横浜市)でぶつかります。

しかし兵の数は100倍以上。

いくら畠山重忠が優れた武将であるといっても、これではさすがに勝ち目はなく約4時間の激戦の末、畠山重忠は討ち取られます。

享年42でした。

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「畠山重忠の乱」の詳細

「畠山重忠の乱」が起きたのは1205年7月のこと。

「比企の乱」の2年後、源頼家が亡くなった次の年の出来事です。

「畠山重忠の乱」の発端

発端は「平賀朝雅(ひらがともまさ)」と「畠山重保(はたけやましげやす)」との口喧嘩でした。

平賀朝雅は北条時政の娘婿、畠山重保は畠山重忠の息子です。

この2人はともに3代将軍・源実朝の御台所(妻)を迎えるために京にいました。

そこで酒宴が催されたのですが、その席で2人は言い争いをはじめます。

その場は周囲のとりなしで収まったのですが、このことが火種となってしまいます。

平賀朝雅は、畠山重保から悪口を言われたことを、鎌倉にいる牧の方(※ドラマでは「りく」)に伝えます。

すると、牧の方(りく)はこれを恨みに思い、夫の北条時政に畠山重忠を討つように頼みました。

平賀朝雅への悪口は、畠山氏に叛意(謀反を起こす意思)があるから出たものだという理由です。

時政は息子の北条義時、北条時房らにこのことを相談します。

義時・時房は「畠山重忠が謀反など起こすわけがない」とそろって反対します。

しかし、牧の方(りく)の兄に「牧の方(りく)が継母だから妨害をしようと思っているのだろう」と問い詰められ、最終的に押し切られてしまいます。

これで、畠山重忠の討伐が決定しました。

「悪口を言われたから滅ぼす」というウソのような討伐理由ですが、どうやらこれが史実のようです。

しかも悪口を言ったのは、畠山重忠の子供の重保です。

畠山重忠に関しては何もしていません。

何もしていないのに謀反の疑いをかけられて兵を向けられる」という完全な免罪で「畠山重忠の乱」は始まります。

鎌倉の騒動~出兵

平賀朝雅と畠山重保の口喧嘩の一件が鎌倉に伝えられてしばらくすると、鎌倉は不穏な空気に包まれました。

北条時政の娘婿でこの時すでに隠居していた「稲毛重成(いなげしげなり)」がわざわざ部下を引き連れて鎌倉までやってきたのも一因です。

(関連記事:稲毛重成とは?

なにか起こるのではないかという噂が流れはじめていました。

そして、北条氏の会議によって畠山重保の討伐が決定されると、鎌倉は大きな騒ぎとなります。

謀反人を討伐するため」ということで、武士がこぞって鎌倉に集まりはじめたからです。

どうやらこの時の命令では、「謀反人」が誰かを示さずに招集がかけられたようです。

集まった武士たちの中に、平賀朝雅と口喧嘩をした畠山重保の姿もありました。

三浦義村の命令で畠山重保は取り囲まれます。

そこでようやく畠山重保は自分が謀反の疑いをかけられている事に気づきますが、このとき一緒にいた畠山重保の部下はたった3人。

奮戦しますが、さすがに討ち取られてしまいます。

やがて鎌倉には多くの兵が集まり、大軍勢となって畠山重忠のもとへ向かいます。

この大軍勢の総大将は北条義時でした。

二俣川の戦い

畠山重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き、軍勢を率いて鎌倉へ向かっていました。

二俣川あたりまで来たころ、鎌倉から来た北条義時の大軍と遭遇します。

そこで重忠は息子の重保が殺されたこと、目の前の大軍は自分を討伐するための軍勢であることを初めて知ります

畠山重忠は館へ引き返すことはせず、潔く戦うことが武士の本懐であるとして、大軍を迎え撃つ決断を下します。

そのまま両軍は激突。

激戦となりますが、多勢に無勢で次第に畠山軍は押されます。

約4時間ほど戦闘が行われたのち、愛甲季隆(あいこうすえたか)という御家人の放った矢が畠山重忠に命中。

そのまま首を取られ畠山重忠は討ち死にします。

重忠の死を知ると従軍していた息子らは自害し、畠山軍は壊滅しました。

合戦後

北条義時は鎌倉に戻ると父・時政と対面します。

そして、畠山重忠は無実だったこと、謀反の企てがあるというのは虚報だったことを話し、時政を糾弾します。

時政は黙って引き下がったとされています。

人望の厚かった畠山重忠を討ったことで、北条時政と牧の方(りく)は御家人たちから恨まれるようになってしまいました。

北条時政と北条義時の親子の溝もこのことで決定的になったと見られています。

そしてその後の「牧氏の変」へとつながります。

(関連記事:牧氏の変とは?

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