大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、恐らく「承久の乱」がクライマックスとして描かれます。
承久の乱は、後鳥羽上皇が北条義時討伐の院宣を出したことから「朝廷VS幕府」の大きな戦いとなった事件です。
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では、そもそもなぜ後鳥羽上皇は北条義時を討伐しようとしたのでしょうか?
後鳥羽上皇の目的
通説では「承久の乱」は後鳥羽上皇が幕府を潰すために起こしたものとされています。
しかし、後鳥羽上皇は討伐前に、幕府の人間に対して北条義時を引退させるように説得していたり、幕府の機関である守護・地頭にも北条義時討伐の書状を送ったりしています。
幕府を倒そうとするのであれば、あらかじめ義時の引退を促す必要はなく(※義時が引退してしまえば下手をすると挙兵の大義名分がなくなります)、敵方である守護・地頭に倒幕の書状を送るのはおかしな話です。
このため、後鳥羽上皇の本当の目的は倒幕ではなく、院宣のとおり「幕府から北条義時を排除すること」だった可能性があり、近年の研究ではその説が有力となっています。
承久の乱の背景
当時は鎌倉幕府と朝廷、どちらも力を持っており二元政治の状態でした。
そんな中で鎌倉幕府によって全国に守護や地頭が置かれると、年貢などを巡って各地でトラブルが起こるようになります。
3代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府は後鳥羽上皇の皇子を次の将軍に迎えたいと申し出ます。
これに対し後鳥羽上皇は【愛妾の所領地の地頭撤廃】と、自身に近い【「仁科盛遠(にしなもりとお)」という御家人の所領没収処分を撤回】することを条件として提示しました。
この条件を北条義時が拒否します。
そして弟の北条時房に1000騎の兵を与えて脅しをかけながら交渉を試みました。
朝廷側も脅しには屈せず、結局、後鳥羽上皇の皇子ではなく摂関家の子を将軍に迎えるということで決着がつきます。
将軍後継問題は一応の決着がつきましたが、両者ともに遺恨の残るものとなりました。
北条義時討伐の決意
将軍後継問題で幕府側と朝廷側で一悶着あった直後、京で事件が起こります。
源頼茂(みなもとよりもち)という武将が後鳥羽上皇の命令によって攻め滅ぼされました。
源頼茂は朝廷を守る内裏守護でもあり、鎌倉幕府の御家人でもあった人物で、朝廷と幕府の仲介役でした。
攻め滅ぼされた理由は、源頼茂が「後鳥羽上皇の意向に反したため」とも「将軍になることを企てたため」とも言われていますがハッキリしません。
一説には後鳥羽上皇の倒幕の意思を頼茂が知ってしまったからだとも言われます。
幕府との仲介役を朝廷が討ち取ったことで、幕府と朝廷の緊張は高まります。
さらに、このときの戦いで内裏の施設の多くが火災に見舞われ、多くの宝物が消失したとされています。
後鳥羽上皇は内裏再建のために増税を課しました。
しかし、東国の地頭たちはこれを拒否。
朝廷と幕府の溝がさらに深まります。
こうなると朝廷が幕府を攻めるのではないかという雰囲気が漂い始めます。
密かに寺社で北条義時を排除するための加持祈祷が行われるようにもなりました。
次第に朝廷と幕府の衝突は避けられない情勢となり、とうとう後鳥羽上皇は北条義時討伐の院宣を発します。
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