大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に「後鳥羽上皇(天皇)」という上皇(天皇)が登場します。
幼少時代を「菊井りひとさん」が演じ、成長した姿を「尾上松也さん」が演じることが決まっています。
後鳥羽上皇といえば、「承久の乱」を起こした上皇として有名です。
そのため、今回の大河ドラマのラスボスとも目される人物です。
その後鳥羽上皇とはどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。
後鳥羽上皇とはどんな人物だった?
後鳥羽上皇(天皇)は、日本の第82代天皇で、後白河法皇(演:西田敏行さん)の孫にあたります。
また、平家と共に壇ノ浦で海に沈んだとされる第81代「安徳天皇」の弟でもあります。
壇ノ浦のシーンをご覧になった方はご存知かもしれませんが、平家が滅ぶ時、「安徳天皇」とともに、「三種の神器」を道連れにする形で海に沈めています。
当時はこのことが大きな問題となりました。
源頼朝が源義経討伐を決意した理由の一つがこれですし、伝統を重んじる朝廷にとって、正式に皇位継承の儀式を行うには三種の神器が必要でした。
そのため、当時後白河法皇は何度も占いを行なったりして、なかなか皇位継承の決断を下せずにいました。
結局、「神器は神なので、正当な天皇のもとへ帰ってくる」という理屈で、三種の神器無しの皇位継承を行うことになります。
この時新しい天皇として選ばれたのが「後鳥羽上皇(天皇)」で、三種の神器の継承無しで皇位を継承した(おそらく初の)天皇としても有名です。
そして後鳥羽上皇自身も「三種の神器の継承無しの天皇」というコンプレックスをもっていたと言われています。
そのコンプレックス克服のために、対外的に強い姿勢を取るようになり、ひいてはそれが「承久の乱」までつながったのではないかとする見方もあるほどです。
承久の乱
前述の通り、後鳥羽上皇は「承久の乱」を起こした人物です。
承久の乱とは、「朝廷と鎌倉幕府が真正面からぶつかりあった戦」です。
これに鎌倉幕府が勝ったことで、実質的に朝廷は幕府に従属し、以後数百年間武士の世の中が続くことになります。
先程後鳥羽上皇は「文武両道」と書きましたが、その言葉の通り武芸にも秀でており、狩猟などを好む上皇としては珍しい人物でした。
軍事力の強化にも力を入れており、しばしば幕府側の人間と紛争を起こすこともあったようです。
そんな後鳥羽上皇の鎌倉幕府に対する態度は、当初は穏やかなものでした。
しかし、鎌倉幕府の将軍跡継ぎ問題等をめぐって次第に関係は悪化。
ついに当時の鎌倉幕府執権・北条義時の討伐命令(院宣)を発します。
当時、朝廷の命令は絶対であり、院宣に従うのが当たりまえの時代です。
後鳥羽上皇も院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士が討伐命令に従うと確信していたと言われています。
ここであの有名な「北条政子の演説」が行われたとされています。
上皇側の予想に反し、幕府軍は大軍で積極的に攻め上って来ました。
大混乱に陥った朝廷軍はなすすべもなく完敗。
後鳥羽上皇は、「乱は謀臣の企てであった」として北条義時討伐の院宣を取り消します。
隠岐へ島流し
幕府軍に完敗した後鳥羽上皇は、北条義時討伐の院宣を出した約2ヶ月後、「隠岐島(島根県)」に流されます。
後鳥羽上皇の第3皇子である順徳上皇は「佐渡ヶ島(新潟県)」に流され、乱に関与していなかった第1皇子の土御門上皇は自ら志願して「土佐国(高知県)」へ流罪となりました。
隠岐島へ流されてから十数年経ったころ、時の摂政が後鳥羽上皇の帰京を提案しましたが、当時の執権・北条泰時はこれを聞き入れなかったとされています。
結局、後鳥羽上皇は配流先の隠岐島で生涯を終えました。
享年は60だとされています。
なお、この後、後鳥羽上皇が怨霊となったとする噂が広まることになります。
百人一首にも
ちなみに、後鳥羽上皇は、文武両道の人物だったようで、読んだ和歌は「百人一首」にも選ばれています。
次の歌です。
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
訳:人間がいとおしくも、恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために悩んでしまうこの私は。
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