後鳥羽上皇と源実朝の関係 暗殺で鎌倉幕府と朝廷に溝が出来た?

後鳥羽上皇 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスは恐らく「承久の乱」になるものと思われます。

承久の乱は「鎌倉幕府朝廷」が真正面からぶつかった戦で、その後数百年続く武家政権確立のきっかけとなった大戦です。

この大戦が起こったのは、鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝が暗殺された2年後です。

実朝がいなくなるまでは、幕府と朝廷の関係は決して悪いものではなかったとされています。

では、鎌倉幕府のリーダー・源実朝と朝廷のリーダー・後鳥羽上皇の関係性はどのようなものだったのでしょうか?

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後鳥羽上皇と源実朝の関係性

後鳥羽上皇と源実朝の関係性は良好であったとされています。

後鳥羽上皇は「源実朝」という名前の名付け親であり、実朝の妻の「西八条禅尼(にしはちじょうぜんに)※大河ドラマでは【千世】」は後鳥羽上皇のいとこにあたるため、後鳥羽上皇と源実朝は親戚関係にもあたります。

後鳥羽上皇と西八条禅尼(千世)の関係

後鳥羽上皇は、朝廷に台頭する幕府に対して融和的な態度を示し、そのトップである源実朝を取り込んで、幕府に対する影響力を高めようとしていました。

それに対して幕府は、子供のいない実朝の後継者として後鳥羽上皇の子を次の将軍にするよう相談を持ちかけるなど歩み寄る姿勢を見せています。

この様に源実朝が将軍であった時期の幕府と朝廷の関係性は比較的良好なものでした。

後鳥羽上皇は実朝に対して好意的であったと言われており、実朝が異例の早さで昇進したのは後鳥羽上皇が便宜を図ったからだとされています。

もっと言えば、後鳥羽上皇の子を、子供のいない源実朝の猶子(養子)にするという密約があったともされており、実朝の出世の早さは後鳥羽上皇の子を猶子に迎える準備であったとも言われています。

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鎌倉幕府と朝廷の溝

源実朝は病気がちで、子供が出来ませんでした。

跡継ぎ問題を憂慮した実朝の母・北条政子は上洛した際、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子(ふじわらのけんし)に相談を持ちかけます。

このとき、後鳥羽上皇の子である「頼仁親王(よりひとしんのう)」が選ばれ、政子と兼子の間で頼仁親王を第4代将軍にするという約束がかわされたとされています。

ところが1219年、源実朝は甥の公暁に暗殺されてしまいます。

先の約束通り北条政子は頼仁親王を4代目将軍に迎えようと所望しますが、後鳥羽上皇はこれを拒否

後鳥羽上皇は、トップである将軍実朝の暗殺を防げなかった幕府に不信感を募らせていました。

殺されるかもしれない地位に自分の子を就かせるわけにはいきません。

これで皇族を将軍に迎えようとする「宮将軍」の構想が頓挫します。

後鳥羽上皇お気に入りの源実朝が暗殺され、さらに上皇の子を将軍に迎えるという案もダメになったということです。

これで朝廷と幕府の融和路線の道が破綻してしまい、対立が顕在化、最終的に承久の乱につながっていくことになります。

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