「鎌倉殿の13人」で、源頼家を補助するという名目のもと、13人の宿老達が選ばれました。
ドラマでは、最初は文官と梶原景時の5人体制のつもりが、北条と比企の思惑により、最終的に13人となっています。
このとき、この合議体に加わりたそうにしていた「土肥実平」という御家人がいます。
彼は頼朝の挙兵の初期から参加しており、重鎮と見なされていました。
彼はなぜ合議体に加われなかったのでしょう?
また、土肥実平の最期はどうなったのでしょう?
土肥実平の最期は?
ドラマでは、途中であまり出てこなくなったので、覚えていない方もいらっしゃるかもしれません。
阿南健治さん演じるこの人が「土肥実平」です。
1180年、彼は頼朝が挙兵するとすぐに頼朝のもとに駆けつけました。
途中で離反する豪族も多い中、一貫して頼朝に仕えて信頼を得ています。
石橋山で頼朝が敗れたときは、わずか数騎(7~8騎?)で逃亡したとされていますが、その数騎の中に土肥実平の姿もありました。
途中、逃亡が難しいことを悟ると頼朝は自害も選択肢に入れ、土肥実平に自害の作法を教わっています。
最終的にこのとき頼朝一行は、真鶴(神奈川県)から安房(千葉県)に船で渡って逃げ切りました。
この船での逃亡の用意をしたのも土肥実平とされています。
しかし、それほど貢献して、頼朝の信頼が厚かった土肥実平の最期は「吾妻鏡」に記されていません。
他の史料でも亡くなった記述は確認できないため、「土肥実平がいつどのように亡くなったのか」というのは不明です。
「13人」には選ばれなかった?
土肥実平は「十三人の合議制」のメンバーに選ばれていません。
というか、土肥実平の名前が「吾妻鏡」に出てくるのは、源頼朝が征夷大将軍に就任する1年前の1191年が最後です。
一説には、土肥実平は「源義経」との仲が深かったため、頼朝と義経が対立した際、なんらかの影響を受けて、失脚してしまったのではないかとされています。
また、別の説によると、「頼朝の征夷大将軍就任あたりの時期に亡くなっていたのではないか」とも言われています。
これは、「吾妻鏡」に「土肥実平の後家が参上した」との記述があることを根拠としています。
この記述が示している時期は1195年だと言われています。
つまり、頼朝亡くなる前に、すでに亡くなっていたか、失脚していた可能性が高いと言えます。
鎌倉幕府の重鎮だったのに、13人のメンバーに入っていないのは、「当時すでに少なくとも鎌倉にはいなかったから」という説が有力です。
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